焦燥感に勢いよく身を起こせば、冷や汗が頬を伝うのが分かった。夢と現実の境界が分からないままで、じっと瞬きを繰り返す。
高熱に浮かされている時、人は悪夢を見やすいものなのだという。――ああ、なら、今のも夢か。ほっと一息ついて、日向は自身のコテージをざっと見回した。部屋の隅にまとめてあるウサミの置物が、今日はやたらと歪に見えてしまって視線を逸らす。
「ん……起きちゃったの。大丈夫?」
日向の様子に気付いた狛枝は、やや落ち着いた声音でそう言って、コップ一杯の水を差し出した。「ありがとな」と言って受け取る日向の手のひらは震えきって、それすらも取り落としてしまいそうなほどに危うげだ。
「どうしたの。……怖い夢でも見た?」
そう言って寂しそうに笑った狛枝は日向のベッドの傍に寄り添って、日向が水を飲んだらしいことを確かめたあと、「寝てなよ。まだすごい熱だから」と横になることを促してやる。
「……寝られなかったら横になってるだけでもいいからさ。あんまり無理するのは良くないよ?」
珍しく不安そうな顔をする日向になるべく静かにそう言って、狛枝は「いいから、……ね?」と、子供を相手にするかのような調子で日向を宥める。
「……変なの。こんなバグはアリなんだね」
「狛枝……?」
「あ、ううん?……ごめんね、何でもないよ」
やや恨めしそうに独りでにそう呟いてから、狛枝は日向を窘めるような言葉をいくらか投げる。
「何不自由ない南国生活」を謳っている割に、プログラム内での風邪はアリなんだなぁ、と。そんな腑に落ちないことを頭の片隅で考えてから、狛枝は何かを話そうとしている日向の方へと意識を向けた。
「日向クン……?」
「さっき、さ。夢を、……見たんだ」
「夢を……?」
お前にとっちゃ、下らないことかも、しれないけど。そう言って真っ赤な顔で狛枝を見やった日向に、狛枝は「大丈夫。下らないだなんて思わないよ」と少し笑って、「それで、どんな夢だったの?」と、いたわるように問い返した。
「白と黒のクマが、さ。……並んでるんだ。どのくらいかな……たぶん、数えられるくらいだろうとは、思うけど」
やや掠れた声で言ってから、日向は少し躊躇ったふうに続ける。
「そこの……ウサミの置物、あるだろ。それが……何て言うのかな。もっと、悪意に満ちた、みたいな……」
上手く、言えないんだけど。とにかく、変な感じのクマでさ。そこまで言ってから、日向は「何だったんだろうな、あれ……」とぼんやりしたまま呟いて、狛枝に背を向けるようにして寝返りを打つ。おそらくまだ眠る気は無いのだろう。瞳は熱に浮かされたまま開き続けて、狛枝の言葉を待っているようにも受け取れる。
「……何それ。もしかして、そのクマは白と黒の半分ずつで、片方の目は真っ赤、とか?」
「え……?」
「……いやだな、何で驚くの。例えばの話だよ、例えば」
狛枝はややおどけたように笑ってみせて、いつかの日の忌々しい影を思い出す。シンプルかつ憎らしいあのデザインは、忘れようとしたところでそう簡単に忘れられるようなものではないだろう。絶望に全てを叩き落そうとする女の幻影。それ自体が意志を持っているかのような振る舞いは、事あるごとに「動機」で彼らを苦しめた。
「白と黒のクマ、か。……そんなキャラクターがどこかにいたよね。それはもう、救いようの無い悪役でさ」
「そうなのか……?俺は知らない、けど」
――うん、そうだね。今のキミは、きっと知らない。この平和な世界の記憶だけを持った「キミ」ではきっと、あの醜さを理解できないはずだから。狛枝は思ってから、日向を安心させるかのようににこりと笑う。
「いるんだよ。……そのクマはさ、何度倒しても倒しきれずに蘇ってくる、嘘みたいな難敵なんだ。で、一見無敵にも見えるそいつのことは光り輝く「希望」をもってのみ打ち倒すことが出来る、っていう……ウン、まあ、なんとも正義の味方に優しい設定ではあるんだけど」
笑っちゃうでしょ。いかにも作り話、って感じでさ。でも、素敵な才能を持っていそうな日向クンには、案外ヒーローの役がぴったりかもしれないよ。ゆるゆると狛枝がそんなことを語ってみれば、日向は複雑そうな顔で狛枝を見やった。
「……それで、日向クンはそのクマが怖くて起きちゃったの?」
それはそれで病人らしくてカワイイけどね。狛枝が茶化すようにそう言えば、日向は抗議めいた視線を送って「そうじゃないって」とぽつりと呟く。
「馬鹿言うな。そんなんで、起きるかよ……。俺が起きたのは、お前が……」
「え……?」
つい日向が口走った言葉に狛枝はきょとんとした顔をして、あどけなく小首を傾げた。「……どういう意味?」と問い返した狛枝に「しまった」というような顔をして、日向は「いや、やっぱり何でもない」と口ごもる。
「……そこまで言われたら気になるじゃない。途中で止めないでよ」
「悪い。……けど、別に、大したことじゃないから、さ。……ホントに、大したことじゃない……」
ゆるゆると瞬きをしながら日向は自分に言い聞かせるようにそう言って、先ほどの夢を思い返す。
――ああ、駄目だ。熱に浮かされていると、つい不注意で余計なことまで口走ってしまいそうになる。あんな光景、真正面から伝えたところで決して面白いものではないだろう。ただ誰かが死ぬ夢ならまだしも、あれでは笑い話にだってなりはしない。
「……もしかして日向クン、ボクが出てくる夢を見たの」
そうしてゆっくりと瞬いてから、狛枝は黙り込んでしまったままの日向に問い掛ける。
プログラムの中での眠りとは、つまりはそのアバターが持っている情報を整理することを意味しているから。もしかすると日向が忘れてしまっている遠いあの日々の記憶が、無意識に呼び起こされることだって有り得ない話じゃない。
――きっと、それは紛れもなくキミの記憶だよ、と。そう伝えてしまえないことは、思っていたよりひどくもどかしい。
「……聞いても怒らないか?」
「なに、そんなに凄い内容なの?」
「まあ、気分のいい話では、ないと思う、かな……」
日向は語りつつ、なおもその夢を狛枝に伝えてしまうことをひどく躊躇う。だって、あれはおよそこの世界には有り得ないような凄惨な光景だったのだ。それなのに、あまりにも鮮明に思い出せてしまうから。
「そっか。……ウン、別に怒ったりしないよ?キミがくれる言葉なら、それがたとえどんなものでも、ボクはちゃんと受け止めるからさ」
――なんてね。こんな言い方はちょっと白々しかったかな。内心だけで自嘲して、狛枝は視線を窓の方へと移した。
「所詮過去は過去なんだ、って……いつも言うのはキミの方でしょ」
「ん……?俺、そんなこと言ってたか……?」
「言ってたよ。……ふふ、熱が下がれば、そのうち思い出すかもしれないね」
そう言って狛枝が誤魔化せば、思考の巡らない日向は考えることを放棄して、素直にそれを受け入れる。
――嘘だよ。本当は思い出すはずが無いんだけどね。だって、「過去は過去でしかない」と未来を歩こうとしていた日向創の希望の記憶は、今は失われてしまっているんだから。
「ごめんね、話すの邪魔しちゃって。それで、キミはどんな夢を見たの?」
「っ……。……お前が、死ぬ夢を見たんだよ。それも、……ただ死ぬだけじゃなくて、さ……」
口にするのも憚られるほど、ひどく残酷なやり方で。まるで全てを犠牲にすることに安堵を覚えているかのような、神に赦しを乞うような、敬虔な讃美の音の中で。
あの身体に槍が突き刺さった瞬間に目が覚めたから、きっとあれで絶命してしまったのだろう、と。そう推測することさえ気分が悪くなるほどに、あれは生々しくて、苛烈で非情な映像だった。
「ボクが死ぬ夢?……ふふ、それはまた非現実的な夢だね」
「そう、思うか?……やっぱりそうだよな」
けどさ、どうしてなのか、そうは割り切れないんだよ。日向がそんなことを口にするものだから、狛枝はどう返して良いものやら分からなくなって、日向の言葉を黙ったままで聞いている。
「そこは、……息の詰まるような、炎の中で……。建物が、燃えてるんだ。お前は、そこで、……、その……」
そこで一瞬言葉を切って、日向はばつが悪そうに狛枝を見やった。優雅に狛枝は微笑して、日向に小さく言葉を投げる。
「……いいよ。全部話して?」
「けど……」
「受け止めるって言ったでしょ。いいよ。……日向クンが苦しいのはボクも嫌だし」
――それに、何もかも自分でやったことだからね。本当は全部知ってる。どれほど痛みを覚えたのかも、それがどれほど愚かであったかさえも。決して忘れられはしないよ。たぶん、この先どんなに時が経ったところで。
「……続きを教えて?」
あの風景がキミにどう見えていたのか知ることが出来たなら、それは少し尊いことかもしれないから。心の中でそんなことを呟いて、狛枝は日向へ先を促す。躊躇いを何とか振り切るように、日向は続けた。
「讃美歌が、……流れてた。何も聞こえなくなりそうなほど、大きい音で……」
「ふふ、そう。……讃美歌は、実際好きかな。……ううん、違うかな。単に、それらしいことに憧れてしまっただけかも」
だって、ボクは別に神様を信じているわけじゃなくて、そこに輝く希望を信じているだけだから。実在したかもしれない伝説の先人を崇める気にはならないし、それよりも、もっと愛していたいものがある。思ってから、狛枝は日向の言葉の続きを待った。
「そう、そこにさ。さっきのクマ……キャラクターだっけ……?それが、居るんだよ」
「……白と黒の?」
「ああ、片目が真っ赤で……」
それが導火線みたいになってるんだ、と。たどたどしく日向は語って、恐ろしいものに触れるかのように声を震わせる。
――ねえ、日向クン。その悪魔の名前はね、モノクマって言うんだけど。この名前もたぶん、伝えちゃいけない決まりなんだろうね。余計なことを口にしてしまったら、きっとこれを見ている苗木クン達にも怒られてしまうんだろうから。
全ての言葉を呑み込んで、狛枝が寂しげに「そっか?」の一言だけを呟けば、「それで……」と弱々しい日向の声が返される。
「部屋の奥に、お前がいるんだ。……お前はそこで、ナイフを持ってて……」
「ふふ、本当に物騒な夢。……それで、ボクは何をしてたの?」
「傷を、付けてた。……声が漏れないように、口を塞いで」
日向の目の前に映し出されたあの光景の中の狛枝の様子は、ほとんど狂気にも近いものだった。追い詰められるようにして自分を痛めつけるその光景は、今思い出しても恐ろしいと言うよりは、ひどく胸がつかえるような感覚がする。けれど、それは夢だからそう思うというだけのことなのかもしれない。実際に目の前にして当事者になってしまえば、あまりの異常さにきっと思考が止まる。そんなことを考えて、日向は苦々しげに視線を逸らす。
「……ボクは痛いのは嫌いだからね。……その夢の中のボクは泣いても、喚いても、誰にも気付かれないようにしたのかも」
「何で、わざわざそんなこと……」
「ん、……ボクを好きなボクが嫌いだったからじゃないかな?……きっとね」
――あんな状況になってもまだ自分を慈しむ自分を、たまらなく殺したいと思ったから。だから殺そうとしただけなんだ。自分が一番苦しい方法で。あれが絶望的な自分への罰になればいいと思って。そうしていつか、それが希望に変わればいいと思って。
「やだな、そんなに深刻そうな顔をしないでよ。別にそんなに真剣に考えなくたっていいんだよ?……だって、夢は夢でしょ。……大丈夫。ボクは、ちゃんとここに居るんだし」
それで、結局どうしてボクは死んじゃうの。ふわりと笑って狛枝が問い掛けると、日向はひどく戸惑ったように「それは……」と口ごもって、振り絞るように言葉を紡ぐ。
「槍が、突き刺さるんだよ。……お前に。あれが何なのかは、俺は全然知らないけど……」
とてつもなく大きな槍だった。すごく苦しそうな顔をしててさ。俺は止めたいのに、俺自身が居なかったんだろうな。見えているだけで、止められもしなくて。そこで目が覚めたんだよ。だから、たぶんあれでお前は。そんなことを消え入りそうな声で語った日向に、優雅さを崩さぬままで、狛枝はそっと視線を合わせる。
「……ふうん?それはまた痛そうなもので殺してくれるよね。日向クンの夢はボクに冷たいなぁ……」
そっか。それじゃあ、結局ボクが死んだ本当の原因は、ボクの目の前に居る日向クンは知らないままなんだ。狛枝はそんなことを寂しげに思ってから、「ねえ、日向クン」と呼びかける。
「ボクが寂しがりだってことはさ、キミでもきっと知ってるよね」
「何だよ、いきなり……」
「……ううん?独りで死ぬのはさ、やっぱり怖いことだなぁって、そう思っただけなんだけど……」
――それでも今、振り返ればさ。ボクは独りで死んだんじゃなくて、きっとキミ達に殺してもらえたんだろうと思うから。絶望への制裁とか希望への橋渡しみたいな、今となっては何の慰めにもならない愚かな意図から離れた場所で――。ボクは絶望に満ちたフリをしながら、本当は誰よりも、キミ達に救われていたのかもしれないよ。
「きっと、そういうことだから。……キミに、本当のことを伝えられたらいいのにな」
「ん……どういう意味だよ……?」
「ふふ、そうだね。希望のカケラを集めれば思い出すんじゃないかな。……頑張らなきゃね?ここを出たら、キミにはとてもたくさん言いたいことがあるし……」
それこそ、今伝えたところでどうしようもない言葉の波を。あの日々の中で、手に入れたものや、失ったものや、ボクにとって譲れない多くのことを。キミに出会って知ったことも、知りなくないまま知らされたことも、何もかもをボクの言葉で、全てを手にしたキミにぶつけてみたいって、今ならちゃんと思えるのに。
「ね。……だから、早く元気になって。次に目が覚めたら、今日のことは忘れてくれても構わないから……」