「頭が痛いような気がしたからさ、ドラッグストアの薬を持って来て飲んでみたんだけど」。そう口にする狛枝は、いやに熱に浮かされたふうをして、「何だか、余計にひどくなったような気がするんだよね……」とぐったりした様子で訴える。
目の前が妙に色鮮やかで、ちかちかと明滅するように揺らいで、耐え難いほど頬が熱い。目の前のすべてがまるで現実ではないかのような錯覚に陥って、どこからか聞こえてくるのは――。
「泣き声……?」
「え……?」
狛枝はそんなことを呟いて、暗がりで辺りを見回す。日向と二人きりのこの場所で、自分達以外の声が聞こえるはずは無い。そう思えば思うほど、ますます「声」は鮮明さを増して行く。子どもが泣きじゃくっているかのようなその声は、悲しみを押さえ込むように切々としていて、ただ孤独に響いているだけだ。
「ちょっと待て。お前、何飲んだんだよ?」
狛枝の様子に危うさを覚えて、日向は手元のファイルからドラッグストアの見取り図を取り出した。
現実世界のこの島においても、どういう事情なのかドラッグストアは存在している。基本的に、あのプログラムは相当忠実にこのジャバウォック島を再現しているらしい。プログラム内においてのモノクマは、こういった危険性のある建物を「作った」のではなく、「元あった形に戻した」だけなのだ。本来苗木達が用意していた希望更生プログラムには、ワタツミ・インダストリアルやドラッグストアのような暴力性の高い場所は存在せず、十六人の生徒がほのぼのとした環境の中で過ごして行けるように配慮がなされていたから。
ともかく、現実世界にあの施設が存在すると分かった時に、日向達は五人で手分けをしてあのドラッグストアにどんな薬が並んでいるかを調べたのだ。処理する方法が分からない以上、どんなものを放置しているのかくらいは知っておいた方が良いと判断したがゆえの重労働だったが、苦労の甲斐あって、一応一通りのデータは出揃っている。
「どんなやつだったんだ?見た目とか、色とか」
「うーん、瓶の液体だったんじゃないかな……?色は、……見てないや」
たしか栄養剤みたいな形してたよ。風邪薬って書いてあった気がするんだけど、とやや手一杯なふうに説明する狛枝は、「やめてよ、何で泣くの」と鬱陶しげに脳裏に響く「声」を拒絶する。ぼんやりと鮮やかな視界に現れた影は、いよいよはっきりと狛枝の感覚を壊しに掛かっているようだ。
「栄養剤、って……これか……?けど、これってこの間ソニアに飲ませたやつだぞ。中はもう空になってるはずだ」
狛枝が言っている風邪薬については、先日熱を出して苦しそうにしていたソニアに渡してしまったばかりだった。何が無くなったかが分かるように、空き瓶はラベルを付けたままで同じ棚へと戻しているので、手に取れば空になっていることには気が付くはずだ。
――と、いうことは。
日向は思ってから、恐る恐る狛枝の言う「風邪薬」の両隣の薬についての説明文に目を走らせた。
――棚番X02a。劇薬。取扱注意。棚番X02c。幻覚剤。取扱注意。
「幻覚剤って……」
あまりにも物騒なその注意書きを見て取って、日向は冷や汗を浮かべながら息を呑む。まだ命があるということは、おそらく狛枝が口にしたのは後者なのだろう。そんなことを思ってから、詳細な説明についてのページを開く。
――棚番X02c。危険度二ツ星。現実にありもしないものを存在するかのように訴え、精神的に非常に不安定な状態となるが、基本的に記憶の保持には影響しない。発現する虚像は投薬対象の心理状態に深く影響していると思われるが、詳細は不明。その他の諸注意については後述。なお、この薬品は主に拷問を目的としたものであり、その他の用途においての乱用は人道的に問題があるものと定義される。
そう記されている文面を前に、日向は苦虫を噛み潰したような顔で狛枝を見やった。
「おい、大丈夫かよ……?苦しくないか?」
「ん……これ、遅効、性、かな ……?だって、もう飲んで、から、しばらく経って……」
やや苦しげに呟きながら、日向の言葉にまともに答えることもなく、狛枝は頭の中にわんわんと響く泣き声にあてられそうになる。やがて狛枝の目の前で形を成したひとつの影は、口元を歪めたシルエットのままで「キミのせいだよ?」と狛枝を真っ直ぐ指さした。
「ねえ、気付いてるかな?キミの才能はほんとは才能なんかじゃないんだよ。だってさ、キミのせいでボクの家族は死んじゃったんだから!」
でもね、悲しくはないよ。だって、きっとこの後ボクには幸運が待っているに違いないんだから。少年の姿をした「それ」は無邪気なふうにそう言って、泣き喚いてから見せ付けるようにくすくすと笑うことを繰り返す。
「誰にも愛されなくたって別にいいよね?だって、ボクは希望を愛してるんだから。愛し続けてるんだから!」
それだけで十分だよね。見返りなんて要らないんだ。たとえ世界中の誰がボクのことを愛してくれなくたって、別に少しも悲しくなんかないよね。そう矢継ぎ早に続けるシルエットに「うるさいな……」と狛枝が言えば、傍らの日向は不安そうな表情のまま、「狛枝……?」と呼ぶだけだ。
「うるさいな。消えてよ。……聞きたくない、そんなことは」
幼い自分の姿に指をさされて、狛枝は苛ついたように首を振る。
――ああ、随分捻じ曲がった幻覚だな。思ってから、狛枝は渦巻く不快感に深く息を吐き出した。
愛されなくたって構わないかどうか、だなんて、そんなこと、答えは最初から決まってる。大体、特別に愛されたいと思ったこともないのに、わざわざそれを主張してくる意味が分からない。そうして疎ましそうに影の方を睨みつけて、狛枝は「早く消えろって……」と呟いた。
「キミのことなんて、誰も求めてないんだよ。もちろんボク自身もね?キミがボクの幻覚ならさ、もうちょっとボクを貶めるのにマシな方法を考えて来たらどうかな?」
「やだなぁ、そんなことを言うからばちが当たるのに。そんなんだからキミは誰にも看取られずに、絶望のまま独りで死んじゃったりするんだよ?」
勘違いしちゃってバカみたい。にこにこ笑って幼い影がくるくるとステップを踏めば、狛枝は必死にそれを否定するかのように首を振る。
「だってさ、飛行機の件は事故だったんだよ?別に、彼らのことはボクが望んで死なせたわけじゃないんだ。その後のことだって、ボクが幸運になりたくてなったわけでもない。なのに、それを全部ボクのせいにするって言うの……?」
――常識では起こり得ないほどの不幸の後に、常識では有り得ないほどの幸運を受け取る。それのいったい何がいけないというのだろう。だってそれは十分な犠牲の中に見出される対価じゃないか。不幸になるだけ不幸になって、その後に何の見返りも無いのなら、それはただの不運でしかない。
「なーんだ、そんなこと?そんなの当たり前じゃない!だって、元はと言えば、キミがそうやって生まれてこなければ良かっただけのことでしょ?結局のところは今、キミがそうやって生きているからいけないんじゃない?……希望のために死にたいだなんて、笑わせないでよね!それを言うなら、キミが今すぐ死ぬことこそ希望だよ!だってそしたらさ、これ以上だあれも不幸にならずにすむじゃない?」
「は……?」
「だからさ、キミが希望のために死にたいのはキミの勝手なの。だって、そう願うことで、キミはキミ自身にとってのたくさんの「希望」を殺してきちゃったんだから。……ねえ、まさか気付いてないだなんて許さないよ?」
じゃないとちいさなボクの気持ちはどうなるの。ねえ、そのことについて、大きなボクはどう思う。そう笑って言った影は狛枝に数歩詰め寄って、「キミが死んじゃえばそれだけで解決なのにね」とにこやかに笑う。
――その直後、幼い彼の形をした影は「うぷぷ」と聞き慣れた声を出し、憎き愛しき絶望のシルエットに姿を変えた。
「うぷぷぷぷ。こうして可哀想な少年狛枝凪斗クンは、誰にも愛されずにみんなを愛し、誰もを不幸にする険しい道を選んでしまったのでした!いやー、絶望的だわ。絶望的すぎてどーにかなっちゃいそう!」
「え……?」
「なーんちゃって!ねえ、絶望した?ねえねえ凪斗クン、もしかしてすっごく絶望しちゃった?」
弾けるように瞳を輝かせて言うのは、嫌と言うほど見慣れてしまった一人の少女。「超高校級の絶望」と呼ばれるその人物の虚像は、本物さながらのハイテンションを引っ提げて、狛枝の前に至極堂々と立ち尽くす。
「はは、何それ……キミまで出てくるなんてさ、そんなの聞いてないよ……」
やや憔悴したようにそう言って、狛枝はいよいよその場にぺたりと座り込む。すっかり幻の世界に囚われている狛枝は、揺らぎかけた心を繋ぎ止めるように静かに息を吐き出した。
「……キミの顔なんか見たくもないのに。ああ、それとも、もしかしてこんな幻覚にわざわざ出てくるくらいには、ボクはキミのことが大嫌いってことなのかな?ハハ……それはそれで最低の気分だよ。憎しみの意味でさえ、キミのことをそこまで意識したりしたくはなかったんだけどな……」
江ノ島盾子に自分がまだ関心を持ってしまっている、ということそれ自体が、狛枝にとっては耐えがたい屈辱だった。死んだ絶望にこだわり続ける必要など皆無のこの世界で、まだこんな、どうしようもない人間の記憶が消えてくれないままなんて。
「にしてもさーあ、不思議よね?アンタが行くとこ行くとこ、周りの人間全員不幸!なのにアンタは超高校級の幸運!ねえ、これってどういう気分なの?自分のせいで誰かを不幸にして行く気分ってどんな感じ?盾子ちゃん知りたくなっちゃった。ねーえ、教えて教えて?」
空想の中の江ノ島盾子は絶望を前に恍惚とした表情で詰め寄って、矛盾を突き詰めろと狛枝に急かす。ただの暇潰しにしか過ぎないとでも言うような軽々しさで、「あぁん、それにしても絶望ってサイッコーだわ!」と呟くこれも、所詮は自分が作り上げた偶像なのだろうかと。それを思えば尚のこと、これほどまでに詳細に江ノ島盾子という人間を記憶している自分自身に嫌気が差して、狛枝は自嘲の息をついた。
「別に、どういう気分も何もないよ……」
だって、ボク自身は不幸を与えようと思って生きているわけでも、何かを犠牲にして幸福を得ようと思っているわけでもないからね。狛枝は思って、言葉少なに「ねえ、もういいでしょ……」と呟いた。
「……狛枝」
そこへ、ぽつり、と狛枝を呼ぶ声が響く。きちんと意識を向けられず、狛枝がぼんやりとその声を聞き流そうとすると、今度は一際大きな声で、引き戻されるようにその名が呼ばれた。
「……狛枝!」
「ん……?え、……なに……?」
突然のことに混乱した頭で狛枝がそんなことを問い掛けると、「いいからこれ飲めよ」と囁いた日向に、小さな容器に入った液体を無理やり口内に流し込まれる。
「……っえ……」
咄嗟にえづきそうになったのを何とか堪えて飲み込むと、ひどく苦々しい血の味がした。
「なに、これ……?」
疑問を投げかけるのもそこそこに、朦朧とした気分がやや晴れて、目の前の空想世界がいくらか薄らいで行く。流し込まれたのはどうやら解毒剤の類らしい、と自由になりかけた頭で狛枝が理解した途端、傍に寄り添う日向が「……大丈夫かよ?」と少し歪んだ表情のまま投げかけた。
「え、ちょっと、日向クン……?」
狛枝を案じる日向の指先からはぽたり、ぽたりと血が滴って、痛々しい傷口が未だ塞がっていない状態だった。薬の後遺症でやや荒い吐息のまま「どうしたの、それ……」と狛枝が聞けば、「ああ、別に見た目ほど大したことじゃないって」と日向は笑った。
「この薬剤の説明、続きがあったみたいでさ。お前がドラッグストアで飲んだっていう薬、長い間胃に留まってて、効き始める時間が結構遅いらしい。だから、最悪の場合は手遅れになる前に血液を飲ませてやると、血液の成分に反応して幻覚効果がだいぶ軽減されるらしいんだ。……もちろん荒療治だし、緊急時以外はあんまり勧められたもんじゃないらしいけどな。……ああ、ほら、飲み込めたらこれもちゃんと飲んどけよ」
そうして押し付けられるようにコップに入った水を流し込まれれば、少し塩辛い味がした。おそらくは生理食塩水の類だろう、と。狛枝が思ったのと同時に、日向の説明は続く。
「もう身体に巡った分は全部は取り切れないだろうけど、進行は少しは抑えられると思うから。……言っとくけど、俺の血が嫌とか嫌じゃないとか、そういう苦情は受け付けないからな。どっちみち、この状況じゃ仕方ないだろ」
一気にまくしたててから、はあ、と息をつく日向は、どっと疲れたように肩を落とした。
「それで、少しは落ち着いたか?」
「……ウン。たぶんね……。まさか、キミに吸血鬼まがいのことをさせられるなんて思ってなかったけど」
「変なウイルスは持ってないぞ。それは保障する」
というかそれじゃないとさすがにやらないけどな。言ってから、日向は「目の前にあるものくらいちゃんと確認してから使え」と説教混じりに狛枝を咎める。
「ごめん、ボクなんかのために余計な怪我させちゃったりして……本当に、ボクはなんてどうしようもないクズなんだろうね」
「……自分を卑下するのは止めろって言っただろ。別に気にしちゃいないさ。むしろあのまま黙って見させられている方がずっと迷惑だったしな」
何しろ気が気ではない。何に苦しんでいるのかも分からないまま、だんだんと追い詰められていく様をただ見ているだけ、というのは。
「……ウン。こんなに優しい日向クンに看病してもらえるだなんて、やっぱりボクはツイてるのかもね」
呟いたところでふと、狛枝は幻覚の中の江ノ島盾子の最後の言葉を思い出す。
――強制的に断ち切られてしまったあの問いに、まともに答えていたとしたら何と返答すべきだったのだろう。
「ねえ、日向クン?」
「ん、何だよ?」
「日向クンはさ、今、この島にいることを不幸だって思う?」
「何を突然……。別に不幸じゃないぞ。というか、不運とか幸運がどうこう、って感じじゃないだろ、この状況って」
何でもそういう言葉で量ろうとするのは良くないだろ。あしらうように言って、日向は忘れぬうちにと一言加える。
「ああ、それから、この島に入ってからのことだけじゃなくて、こうしてお前とずっと行動していること自体にも、別に不幸だなんて思ったことは一度も無いからな。……さっきお前が何を見てきたのか知らないけど、「幸運」でしかないお前の才能で俺の「不運」は導けやしないんだ。……だからあんまり自惚れるんじゃないぞ、狛枝」
「……ウン。そうだね。そうだといいな……」