目が覚めて少し落ち着くと、自分が置かれている状況は何となく分かった。あれが紛れもない事実だったことを指し示すかのように、自分が死んだ日の風景を覚えている。それは遠い昔のようで、ほんの一瞬前のことのようにも思える鮮明な記憶。絶望に絶望して、希望のために死を選んだ独りよがりで愚かな記憶だ。
――そっか、ボクはやっぱり希望にはなれなかったのか。改めてそのことを思うと、少しだけ胸が痛むような心地がした。
「何の、つもりだよ……?」
ボクは今、傍に付き添ってくれていた日向クンを組み伏せて、持っていたナイフを突きつけている。驚いたような顔でボクを見やる日向クンは、それでもとても弱ったままで、狛枝、とボクの名前を口にして、ボクの様子を窺っているだけだった。どうしてキミが生きてるの、とか、どうしてボクは目覚めたの、とか、言いたいことはとにかくたくさんあったけど――。どちらにしてもね、今はただひとつだけ、ボク達にとって確かなことがあるよ。
「……何のつもりか、って?」
そんなことは決まってる。それはね、結局のところ、ボク達には生きている意味なんか無い、ってことだよ。日向クンに向かってそんなことを告げてみれば、日向クンは疑問いっぱいに瞳を揺らして、言葉も無いままボクを見やる。
「……分からないかな。こうして目覚めてしまったことそのものが、ボク達にとっての次の絶望なんだってこと」
だってね、思い出したんだ。あのプログラムに掛けられる前にボクが絶望に屈してやったこととか、キミが犯したどうしようもない罪の数々だとか。それを背負って図々しく生きて行こうとするだなんてことは、きっと許されることなんかじゃないんだよ。だって、これは既にボク達の意思でどうにかなるようなものなんかじゃなくて、遥か昔に通り過ぎてしまった取り返しの付かない事実なんだから。引き寄せてしまった悲劇を埋め合わせることなんて出来やしない。たとえばここが償いだなんて生易しい言葉で未来を望むことが許される世界だったなら、そもそも絶望なんてものが存在しているはずはないんだよ。
「ねえ、このまま生きていくことが許されるって本気で思うの」
「狛枝……?」
「ボクもキミもさ、死んでしかるべき人間なんだって思わない。……一度絶望に染まった人間がもう一度希望を持とうだなんて、そんな幻想を抱くことは愚かだよ。世の中にはさ、生きていた方がいい人間と、どっちでもいい人間と、死んだ方がいい人間がいて……ボク達はその中でも、圧倒的に死んでしまった方がいい側に位置している人間なんだ。……キミにはそれが分からないかな?このまま絶望を振り払って希望のフリをして生きて行けたとしてもさ、いつかまた絶望の記憶に苛まれて、ただの絶望に戻ってしまうかもしれないじゃない。……その時、キミは本物の希望にどう責任を取るって言うの」
七海千秋が未来機関の人間で、ボクが結果的に彼女を殺してしまったことは、確かに今更どうしようもないことだけど。ボクの計画が失敗したなら失敗したで、彼女を殺した罪とボク自身の傲慢さを咎めて、あのまま死なせておいてくれれば良かったんだ。そうすれば途方も無い絶望をもう一度世界に振り撒きかねない芽を摘んで、もう少し世界は滞りない速度で希望に満ちて行けたのに。
「ボク達を殺そうとした未来機関の判断は正しかったよ。……どうせ、絶望が蔓延っている世界に希望なんて有りはしないんだ。だって、ボク達は絶望の心地良さを知ってしまっているからさ。希望だなんて不確定で綺麗なものは、こんな世界の中ではすぐに塗り潰されてしまうから」
「そんなこと……」
「無いって思う?……それはね、キミが今この瞬間、キミの持つ絶望を乗り越えたと思い込んでいるだけだよ。今更、正義のヒーローなんか気取ってたって仕方ないでしょ?だって、キミはどこまで行っても所詮はただの予備学科生でしかなくて、ボクはただの偽りの幸運でしかないんだから」
まったく、都合の良い名前を付けられちゃったなって思うよ。でも、結果的には間違ってはいなかったのかな。「超高校級の幸運」として希望ヶ峰学園に入学してさ、あの女に出会って絶望に堕ちたからこそ、ボクはボクの本質が絶望であることに気付けたんだから。希望を愛し続けるこのボクが、希望のために出来る唯一の方法が死ぬことだったんだって、あの時ようやく分かったんだから。
「カムクライズルはキミ自身でしょ?……だって、あれはキミが望んだ姿なんだから」
「それ、は……」
「否定するだなんて許さないよ。……ねえ、日向クン。ボクにとってはさ、どこまで行ってもキミはキミでしかないんだよ。キミの特別を求める心が彼を望んだって言うんなら、それはやっぱりキミの姿に違いないんだ。……たとえ彼の姿がキミの思い描いたカムクライズルと違っていたんだとしてもね、アレはキミが招いた事実なんだから、キミがそこから目を背けることをボクは許さない」
――都合の良い理論になんて逃がさない。だってさ、キミはとても弱いから。このままボクが独りで死んで、キミを残して行ったりしたら、キミがいつか同じことを繰り返すって分かるから。ボクがキミという人間を愛しているからこそ、ボクはここでキミと終わりを迎えなきゃ。
――なんてね。独りで死ぬのはもう嫌だなって、そう思う気持ちも無いわけではないんだけど。このまま生きていてしまったら、きっとまたボクの希望は裏切られるんじゃないかって怖いんだ。ボクはね、もう裏切られたくないんだよ。出来るならこのまま一緒に、キミを信じたままで死んでしまえるといい。
「罪を償おうと思うことすら許さないって言うのか、お前は……」
「許す、許さないじゃないよ。……実際、許されないって分かってるでしょ、キミだって。罪を犯した人間が、誰かの希望であることを望むなんていうのは本末転倒の最たるところだよ。……それでも、彼らは乗り越えていけるのかもしれないけれどね。何も持たないキミにそれは出来ないんだ。……いいじゃない。何でもないもの同士、ここで死んでしまうのも悪くはないでしょ」
世界に希望をもたらしたいっていうんなら、別にね、生きているだけがその方法じゃないんだよ。ボク達にはボク達なりに世界に貢献できる方法がきっとあって、その方法がこれしかないというだけのこと。生きることに縋ることそのものがボク達にとっては何よりも大きな罪で、それごと抱えて乗り越えて行けるほどには、日向クンはきっと強くなんかないから。独りで死ぬのは苦しいけれど、二人で死ぬならもう少しだけ辛くはない。
――きっとね、キミは後悔しているんだろうから。あの陳腐な世界でボクを信じなかったこととか、ボクを死なせてしまった現実だとか。誰かがボクを信じないことなんてボク自身は当たり前のことだと思っているから、ホントは別に日向クンが後悔するようなことじゃないんだけど。それでもキミがボクに対する後ろめたさを捨てずにいてくれるなら、せめてボクがその優しさに付け込んで、わがままを言うことを許して欲しいと思うんだよ。
「……ねえ、日向クン。死ぬことを恐ろしいってキミは思う?」
「え……?」
「……自分が失くなってさ、何も考えられなくなるのってどんな感覚なんだろうって、一度死んでもまだ思うんだ。……結局、ボク達はそれを知ることなんて出来なくて、こんなにもちっぽけなことに怯え続けるしかないのかもしれないよ。でもさ、それってみんな同じことだから。みんな同じなんだって思えるなら、少しは救われたような気がしない?少なくともそれだけで、自分だけが孤独なまま死ぬ、ってわけじゃなくなるんだし」
あんなふうに独りきりで死ぬこともなく、ボクがただ一人、誰かを誰かとして認めることが出来たキミと死んでいけるなら、それはとても幸せなことなんだろうって思うんだ。日向クンがそれをどう思うかは分からないけど、きっとキミがこの先生きて行くことは、キミのためにはならないだろうと思うから。
「……ねえ、日向クン。もう、いいでしょ?」
ボクの周りに眠るたくさんの仲間達と、疲れ切って泣き出しそうな日向クンを見ていたら、あれから随分と時間が経ったんだってことくらいは分かるよ。きっとね、キミには耐えられないよ。このまま目覚めるかどうかも分からない彼らを待ち続けて、不安に襲われ続けるたびに、キミは絶望に苛まれていってしまうから。ボクが今独りで命を絶って、キミ一人を残してしまって、苦しみに壊れていくだけの未来を迎えさせることはしたくないんだ。キミに望みの無い未来を見せたくないのは、所詮ボクの勝手でしかないって分かってるけど。
「……お願いだよ。ボクを独りになんかしないで」
きっとこの言葉を口にしてしまったら、もう後戻り出来ないことだって知ってはいるけど。とても傲慢で身勝手なこの願いを、ボクにとって最後のわがままを、今だけは甘やかしてキミは許して。それでももしキミがボクの言葉を撥ね付けると言うのなら、それはそれでキミは本物の希望になれるかもしれないだなんて――。どこまでも逃げ道を用意して、ボクの幸福にしか成り得ないような不束な願いを望む罪だけを、どうかいつまでも忘れずに抱いていて。このまま真っ直ぐに生きて行くことはどうしたって出来そうにないから、ボクが今ここで死んでしまうことはきっと仕方が無いことなんだろうけど。
――ねえ、日向クン。せめて安らかな夢の中にキミを連れて行きたいと願ってしまうのは、キミがボクにとって希望や絶望であるその前に、日向創という一人の人間だってことを知ってしまったからなんだ。キミがボクにとってただの希望や絶望にしか過ぎないままで、キミという人間であることにさえ気付かなければ、こんな不可解でどうしようもない感情なんか知らないままでいられたのかもしれないけれどね。それでも、もう遅すぎる。だって、キミはキミ自身としてあのプログラムの中でボクを打ち負かしてしまったから。今更言い逃れをすることなんて出来ないし、だからこそ、ボクにとって未知でしかないキミの迎える未来が恐ろしい。
「お前を、独りに……?」
「うん。……でもさ、これは別にキミのためっていうわけじゃないんだよ?やっぱり独りで死んでしまうことは怖いんだ。……出来るなら、最期はキミと一緒がいいな。……こんなことを願うのもおこがましいくらい、どうしようもなくわがままで、無価値でしかないボクだけど」
「……っ」
「もちろん、キミが望んでくれるなら、で構わないよ。キミが未来のために生きていたいと願うことを、無理に止める権利はボクには無いから……」
もしキミが生きることを選ぼうとするのなら、その時はどうかキミの手でボクを殺してほしいと思うんだけど、もしもそれが心苦しいなら、せめてボクを看取ってほしい。キミがここに居てくれないまま孤独に死ぬことくらい、辛いことなんて他には無いから。そんなことを張り裂けそうな心のままで伝えると、日向クンは揺れきったふうにぎゅっと目を瞑る。それでもほんの少し経ってから、澄んだ瞳をボクへと向けて、どこか諦めてしまったようにボクの頬へと優しく触れた。
「泣いたりするなよ。……俺まで泣きたくなってくる」
「え……?」
覇気を無くして潤んだ瞳の日向クンがそんなことを言うものだから、ボクも自分で触れられていない方の頬に手を伸ばしたら、確かに涙で濡れているのが分かった。おかしいな、別に泣いているつもりなんてなかったんだけど。そう思ったら余計にあふれて止まらなくなってしまったから、込み上げる嗚咽を必死に堪えてみれば、余計な言葉ばかりが湧き上がってきてしまう。
「ねえ、なんで目覚めたりしたんだろうね……?ボクも、それからキミもさ。……キミは、苦しかったでしょ?だって、キミがみんなを見捨てようとするわけがないもんね。目覚めるわけないって分かってても、それでも奇跡を捨てきれないのがキミっていう人間なんでしょ。あの裁判でキミに負けたんだって知った今、初めてそれが分かった気がするよ……」
言えば、日向クンも堪えきれなくなったみたいに一気にぽたぽたと涙をこぼして、それでも何とか立っていられるようにと黙り込んだままで首を振る。そのままボクを抱きしめるように顔を埋めてくれるから、何だかとても安心してしまって、こんなどうしようもない気持ちのままで、とても満たされたような錯覚が過ぎる。
「無理に生きて行くことを苦しいと思うなら、……ねえ、もしキミさえ良かったら……お願い、ボクと一緒に死んでくれるかな。……今までたくさん酷いことを言ってごめん。でも、これが最後だよ。もう、二度とわがままは言わないから……」
希望だとか絶望だとか、こんな状況になってしまえば、案外どうでもいいことなんだって今知ったけど。ただキミを残して死ぬことと、キミに何も残せず死ぬことが、今この瞬間は耐えられないほどに辛いと思う。
「キミのそんな顔は見たくないって思うんだ。……だけど、拒絶するならそれでもいいから。ボクがキミを殺してしまう前に、ボクのことを突き飛ばしてキミは生きてよ。そうしてくれれば、ちゃんと独りで死んでみせるから。別に、追い掛けてまでキミを殺したりはしないから……」
逃げ道のようにこんなことを口にしてしまうのは、叶うなら、全力で拒絶してほしいと思っているからなのかもしれない。だってそうすれば、日向クンがまだ現実に押し潰されていないってことが分かるから。だけど、拒絶しないで欲しいのだって本当なんだ。キミに突き放されたまま、独りで死ぬのはとても苦しいことだから。
――そうして全てを言い終えたボクは、手にしたナイフを自分自身に強く突き立てる。躊躇いなんて特に無かった。これしか方法は無いってちゃんと分かってるから。抵抗するようなものは何も無かった。抵抗されるばかりの人生だったけど。
刃先が抉るように腹部を突き破った瞬間、強烈な痛みに合わせて、どろどろと視界が赤色の海に満たされていく。世界は朦朧として少しちらついていたけれど、日向クンの泣き顔だけはしっかり見えた。――ああ、今度こそ死からは逃れられない。キミと共に消える一度きりのチャンスだけを残して、ボクの身体はすぐに朽ち果てていく。
「ひな、た、くん……」
――ねえ、お願い。そんな顔をして泣かないで。ボクは今とても幸せだから。
「……狛枝」
そうして残った力でボクがナイフを日向クンに向ければ、日向クンは怯えることも無く、どこか覚悟を決めたような眼差しで、愛しさだけを塗り固めたような優しいくちづけをボクに落として、突き立てたナイフごとボクを抱きしめる。「なあ、狛枝」。そう言って死への多幸感に満たされたままで驚くボクに、日向クンはもう一度だけ呼び掛けて、こんなことをそっと囁いたんだ。
「狛枝、聞こえてるか。……ありがとな、お前が生まれてきてくれて良かった」