目を覚ますと、しんとした空間で名前を呼ばれたことに気が付きます。「ソニア、目が覚めたのか」と。そうわたくしの名前を呼ぶ日向さんは、寂しそうな表情をしたまま少し笑っているようにも見えました。
その名前を呼ばれるたびに不確かな感覚が過ぎるのは、まだ少し記憶が混濁してしまっているせいなのでしょう。わたくしはソニア・ネヴァーマインド。ノヴォセリック王国の王女。そう、絶望に染まり希望を得た、今は二つを併せ持つ、希望ヶ峰学園の元生徒です。

「……わたくしはどれくらい?」
「半日くらいかな。大丈夫。それほど長い時間じゃない」
「……そうですか。ごめんなさい。また日向さんに寂しい想いをさせてしまいました」

強制シャットダウンを掛けたあの後、一番に目が覚めたのは日向さんだったと聞いています。未来機関の十神さんがあれから少しの間わたくし達に付いてくれていたようなのですが、用があるからと今日はまだ姿をお見せになっていらっしゃいません。
こうして時折深く眠り込んでしまうことを、「記憶の混濁によるショックを最小限に抑えるための防衛本能でしょう」と霧切さんはおっしゃっていました。日向さんにだけはその反応が見られなかったので、ひとまずわたくし達四人が目覚めるのを、彼はこうして独りで待ち続けていたのだそうです。

「他の方は、まだ目覚められないのですか」
「ああ、そうみたいだ。……九頭龍も、終里も、左右田も」

時々うわ言みたいに何か話すけど、何を言っているのかまでは聞き取れないよ。そうおっしゃって戸惑ったような顔をする日向さんに掛ける言葉を見つけられないまま、手持ち無沙汰になってしまえば、部屋を眺め回してみるくらいしかすることだってありません。
無機質な機械仕掛けのこの部屋については、左右田さんでしたら少しは何か分かるのでしょうか。たくさんのモニターが用意されているだけの、何も映さない部屋はただ静かで、数えればちゃんと十五人居るはずなのに、まるでわたくし達二人だけが別世界に居るような気分になってしまうのです。
幸い、目覚めたわたくしには想像していた以上に手酷い絶望の記憶は宿っていませんでした。それはそうでしょう。身体の一部が無くなっているとか、身近な人を手に掛けてしまったとか、わたくしの絶望はそういった類のものではなかったのですから。
――ただ、ともすれば誰よりも罪の重い過ちを犯したというだけのことなのです。それから、帰るべき祖国が既に無いというだけのこと。この名を使って何万もの絶望を増やす手助けをしたわたくしの過ちは、償いようの無い重罪であることでしょう。帰る場所の無い王女はただの絶望となって、悲しみに耐え切れない弱さを振り撒いてしまったのです。

「日向さん」
「うん?」
「今は、何時なのですか」
「夜の七時だよ。十神さんが戻って来るまでにはまだ二時間あるかな」
「そうですか。夜の七時……」

外界から閉ざされたままのこの部屋は、時間の感覚に些か乏しい気がします。今が何時なのか分からないまま、気を抜けば懺悔にいくらでも費やしてしまいそうな永遠の世界。希望を知った今、それではいけないことを嫌というほど分かっていても、襲い来る後悔に飲み込まれてしまいそうになるのです。
ただ、「そうして目覚められたのなら大丈夫でしょう。たぶん、あなた達は」と。そう霧切さんがおっしゃっていたのですから、わたくしがこのまま絶望に負けるわけには行きません。希望を得ないまま命を散らしてしまった皆さんが、おそらく目覚めた時に抱え込んでしまうはずの大きな戸惑いと絶望を導いて、やがては希望に変える者の一人にならなければいけないのですから。

「……日向さんは、希望ヶ峰学園の校内放送の時刻をご存知ですか?」
「え?」
「学内に残って活動している生徒が、完全に下校しなければならなくなる時刻を知らせる校内放送です。各々の研究だったり、部活動だったりと……何かしら、学内で活動する生徒は多かったですから」
「あー、……俺は予備学科の生徒だったし、授業が終わったらすぐに帰ってたからな。そういうのはあんまり……」

そう言ってわたくしの発言の意図を計りかねたような日向さんは、ゲームの中の表情そのままでわたくしの言葉を待っています。
そもそもあのゲームの強制シャットダウンには、どうやら苗木さん達も意図しない何らかの力が働いたようでした。もとよりあの島の一切の記憶が残らないはずだったわたくし達は、現実世界に戻っても、あの島で過ごした記憶を有していたのです。ただ、その記憶が完全には置き換わらずに、絶望の記憶に希望が追記されるような形になってしまった点については、良いか悪いか少々複雑と言えるところでしょう。
ともかく、あの島での記憶を消さずに済んだために、わたくしのように比較的絶望の軽い人間は希望の自我を保ちながら絶望を同居させ、あの頃のわたくしを過去として葬ってしまっているのですが、果たして九頭龍さん達が目覚めた時にどうなってしまうのかは、正直、見当が付かないままなのです。

「ご存知ない日向さんのためにソニア・ネヴァーマインドがお教えしましょう。……希望ヶ峰学園の完全下校時刻は午後七時、なんですよ」
「午後七時……」
「日向さんは、蛍の光をご存知ですか?」
「……蛍の光って、あのスーパーの閉店の合図によく使われてるアレか?」
「ふふ、やっぱり日向さんもそうおっしゃるのですね。……そうです、彼女もいつもそうおっしゃっていました」

――うおっ、そろそろ蛍の光が流れる時間っすよ!片付けないとやばいっすよ!

そんな彼女の言葉を合図に、大急ぎで教室の後片付けを始めていた風景は、今でも記憶に新しいのに。わたくしの記憶に残る笑顔のほとんどが、今は絶望に苛まれたまま眠りに就いて、このまま目覚めるのかどうかも分からないのだと。そのことを考えれば考えるほどに、身を斬られるような心地になってしまいます。

「いつも言ってた、って……誰がだ?」
「澪田さんです。校内放送の前にかかる音楽は蛍の光ではないのですけれど、澪田さんはいつもそうお呼びになられていました。帰りを知らせる合図は、唯吹にかかれば全部蛍の光っすよ、と。わたくしにはその表現がとても面白くて……初めて耳にした日には、思わず蛍の光について図書館で調べてしまったくらいです」

そんなことをぽつりぽつりと話していけば、日向さんは「それは澪田らしい」とか、「それはソニアらしい」とか、順番に聞き届けて、ほんの少しだけれど笑ってくれました。「たった一人でも、傍に居て笑ってくれる人がいるのは安心する」と。参ったようにそうおっしゃる日向さんは、わたくしが目覚めるまでのこの数日間、この身に覚える孤独以上に辛い思いをしてきたのでしょう。

「……日向さん」
「ん?」
「ひとつ、……思い当たることが、あるのです」

そうして、一番話したかったことを、ようやくわたくしは口にします。きっと、近い未来に必ず目覚める三人のこと。彼らの絶望の一部を、わたくしは知ってしまっているのだと。それから、わたくしが今贖罪するべき対象は、何より、彼なのかもしれないことを。

「次に目覚めるのは、きっと左右田さんです。……というよりも、左右田さんを目覚めさせる言葉を、わたくしは知っていると思いますから……」
「知っているって、どうしてそんなこと……」
「それは……、左右田さんを絶望に引き入れたのが、……わたくしだから、です」
「何だって……?」
「決して強い繋がりではありません。わたくしは左右田さんの一つ下の入学生で、クラスも同じではありませんでしたから。ただ、わたくしが超高校級の王女として絶望を扇動した中に、たまたま左右田さんが居たというだけのことで……」

それでも左右田さんの絶望を煽ったのは、紛れも無くわたくしなのですから。おそらくその呪縛を解く言葉を、わたくしが勇気を振り絞って掛ければ良いだけのことなのです。たとえ目覚めたときにどれほど絶望の記憶に彼がわたくしを詰ろうとも、それは仕方のないことだと分かっていますから。そう自分でも分かるほど弱々しい口調で伝えれば、「そっか」とぽつりと言ってから、日向さんはわたくしの方を見てほんの少しだけ笑われました。

「けどさ、心配しなくても、左右田はソニアを詰ったりしないと思うぞ」
「え……?」
「あいつはそういう奴だろ。すぐに動転するけど、必要以上に他人を攻撃するような奴じゃない」

ソニアの絶望を呼んだのが誰かは知らないけど、元を正せば江ノ島が全部悪いんだ。それはみんな分かってる。だから心配しなくても、あいつはソニア一人のせいにしたりはしないって。わたくしを安心させるようにそう言ってから、「怖いかもしれないけど、少ししたらあいつを起こしてやってくれよ」と。「あんな約束しておいてまだ二人じゃ、さすがにちょっと寂しいしな」と。あまりにも日向さんが優しくそう言うものだから、ああ、この人が一番弱ってしまっているのかもしれないと、わたくしはふとそんなことを思ってしまうのでした。

「いざこうして絶望を思い出してしまうと、想像以上に辛いもの、ですね……」
「ソニア……?」
「……許されないと分かっているんです。わたくし自身が絶望に取りつかれたそのせいで、一体どれほどの人達が新たな絶望に苛まれて……その絶望が連鎖して、一体どれだけの幸福を奪ったのか。ほんの少し考えるだけでも、今は身に沁みてその愚かさが分かります。祖国を失ったからといって、それが絶望を振り撒いていい理由になどなって良いはずが無いというのに……」
「え、ちょっと待て、祖国が、って……?」
「あら……日向さんはご存知ありませんでしたか?……我がノヴォセリック王国は滅んだのです。かねてより暗躍していた反抗勢力によって国土は制圧され、父は斬首に処されたと聞いています」

それは、ほんの少し掛け違えてしまった父の失態。統治者とは元来そういうものですから、もしもの覚悟はいつだって済んでいるはずだったのですけれど。その時が来て、国へ戻る手立てが無いだなんてことは、ただの一度だって考えたことが無かった、から。

「何でそんな……」
「……事があった後、わたくしはすぐに国へ帰ることが出来ませんでした。絶望が蔓延してしまった今、この国から出国する手立てはありませんから。希望を繋ぎ止めるための出国など望んでしまえば、そこに待ち受けているものは無抵抗にもたらされる死でしかないのです。……王女のわたくしが戻っていれば、希望の灯は消えずに済んだかもしれません。父の施政が途絶えようとも、少なくとも、わたくしの存在ひとつでノヴォセリック王家は途絶えずに済みました。……ですが、今はそれも叶わぬ夢。機を逃してしまったわたくしは、所詮国を見捨てた独りよがりな王女です。戻る場所などありません。わたくしが今もこの国に身を置いているその事実こそが、わたくしが祖国を捨てた証も同然なのですから」
「ソニア……」
「大丈夫、ですよ。……当然のことですが、王女はわたくし一人ではありませんから。今は兄妹達にあの国の未来を託して、そこに住まう人々が少しでも生き易い毎日を作ってくれることを願うばかりです」

顔も知らない、おそらく王族としても認められない兄や姉や弟や妹たちに、ただ祈るしか術がないことを知っています。わたくしに手が届かないものを、今更どうすることも出来ないことは嫌と言うほど分かっています。失ってしまったものがこの手に返らないことも、それを招いたのがわたくしの不運であり、弱さであり、その弱さが不必要に多くの脆さを打ち抜いてしまったことさえも。今は全て、受け止めて生きて行くしかないのでしょう。

「……それよりも今はただ、わたくしの手に届く未来を失いたくないのです」

絶望に浸るその前に、守るべきものはたくさんあったはずなのに。それさえも奪ったこの手のひらが、これ以上何ひとつを見失うことのないように。手の届く場所になら、願うだけでなく、祈るだけでなく、この声で、この言葉で、救えるものがあったはずなのに。そのことに気付けなかった過ちを、もうこれ以上繰り返すわけにはいかないから。

「左右田さんを、起こしても構いませんか?」

これ以上こんなに静かな場所で時を過ごし続けていたら、きっと泣いてしまう気がするのです。そうとは言わずに涙を堪えて少し笑えば、「ああ、そうしてやってくれ」と、日向さんもどこか泣きそうな目をしてわたくしにそう告げるのでした。