とても、とても優しい夢を見た気がした。まだ毎日がとても平和に過ぎていた頃、二人で小さな島に出掛けて、写真を撮り合って過ごした日の夢だ。
その日のわたしは、たしか日本舞踊の公演に踊り手として呼ばれていたんだった。「ご友人をお連れなさっても構いませんよ」と言われたものだから、おねぇを見に来ないかと誘ったのだ。
公演は夜からだったから、早朝の島を二人で散歩しながらのんびりと歩いた。相変わらず着付けが上手くできないわたしはおねぇに着替えを手伝ってもらって――そう、それがとても嬉しかったのだと思う。はしゃぎすぎて砂浜で転んで、せっかくの余所行きの着物を台無しにしてしまったんじゃなかったっけ。そんなわたしにおねぇは「まったく仕方ないわね」と言って呆れて、「でも、それも日寄子ちゃんらしいわ」と、いつもの笑顔でシャッターを切ってくれたのだ。
お昼になると小さな茶屋で甘味を食べて、夜になるまで二人っきりでたくさん遊んだ。「せっかくだから、希望ヶ峰のみんなにもお土産を買って帰りましょう」だなんておねぇが言うから、わたしは星の砂みたいな金平糖をたくさん買って、みんなに押し付けてやろうとしていたような記憶がある。

「……っ、おねぇ……」

わけもなく涙が止まらなくて、振袖で涙をぬぐってみれば、お気に入りの橙色が濃い暗色に変わって行く。今も身につけたままのこの帯は、あの日おねぇがプレゼントしてくれたものだ。「初めての単独公演なんだから、ちゃんとお祝いしなくちゃね」と言って。突然差し出してくれたそれがとても嬉しくて、人目も憚らずに泣いてしまったような記憶がある。今から思い返せば、少し恥ずかしい過去かもしれない。

「……西園寺?」
「西園寺さん!」

少しすると、起き上がったわたしに驚いたような顔をして、おにぃとソニアの奴が傍に駆け寄ってきた。そもそもここはどこなんだろうとか、ここに入る前のこととか、それから全然知らないあの島でのこととか。全部がもやがかかっていまいちはっきりしないけれど、今はただ、おねぇの声を聞きたいと思った。

「おねぇは?」
「……小泉は、まだ目覚めてないよ」

でも良かった。このまま本当に、誰も目覚めないんじゃないかと思った。そんなことを呟くおにぃは、何故だかとても安心しているようにも見える。それ以前にひどく疲れた顔をしているみたいだ。ソニアも、たった今入ってきた九頭龍も、左右田も、ついでに終里の奴も、みんな同じように並んでわたしを見てる。

「は?目覚めてないってどういうこと?何それ、意味わかんない。ねぇ、おねぇはどこ?おねぇに会いたい」
「西園寺さん……その、何とご説明申し上げれば良いものか……」

わたしがわがままっぽくそう言えば、ソニアの奴が困ったような顔でわたしから視線を逸らした。何をやましいことがあるのか知らないけど、この反応はやっぱりおかしい。だって、わたしはおねぇに会いたいと言っただけなのに。こいつらがここに居るんだったら、おねぇが居ないはずはないのに。

「おい、西園寺。テメェは何も覚えてねぇのか」
「覚えて……?だからどういうこと?いいからおねぇに会わせてよ。ここはどこなの?なんでアンタたちみんなでわたしを囲んでるワケ?見せもんじゃないんだけど」
「九頭龍、無理に思い出させようとするのは駄目だ。もし情報を処理しきれなくなって暴走したら……」

――ああもう、意味分かんない。おにぃたちの話していることなんてさっぱり理解できない。だいたい、どうしてわたしはこんなヘンテコな機械の中にいるんだろう。

起き抜けにわけのわからない状況に放り込まれて、ゆっくりと眠る前のことを思い出していく。たしかわたしはよく分からない更生プログラムだか何だかに放り込まれそうになって、抵抗しようとしたら、それをおねぇに止められたんだったっけ。あれ、そもそもなんで抵抗しようとしたんだろ。あ、でもそりゃそっか。いきなりこんなヘンな機械に掛けられようとしたら、誰だって抵抗するに決まってるよね。

――それで、おねぇは何でわたしを止めたんだったっけ。どうしても入んなきゃいけない理由でもあったとか。

「……ねぇおにぃ。これって何の更生プログラム?」
「え?」
「だから、これは何の更生プログラムなのかって言ってんの。わたしとおねぇが何かした?思い出せないからわざわざおにぃに聞いてやってんの!」
「そ、れは……」

問い詰めるように聞いてみたら、おにぃは口ごもったまんまで黙ってる。ああもう、おにぃのこういうはっきりしないところは嫌いだ。見てるとひねり潰してやりたくなってくる。ああ、そうだ。それと同じ感覚なんだ、わたしの舞いを見ている人間も。何の力もないくせに、わたしの舞いを上から見ていい気になってる。別におにぃのことは全部が嫌いなわけじゃないけど、わたしのお客はみんな嫌い。日本舞踊を愛しているわけでもないくせに、分かったようなフリしてわたしの見てくればっかり見てるんだもん。本当、嫌になってくるっての。

そういうの見てると――。

「……、あ……」

――絶望、させてやりたくなってくる、って。

そう思った途端、靄がかっていた視界が晴れていくように、突然あふれそうなくらいの情報がわたしの中に飛び込んでくる。踊ることが好きだった記憶、おねぇのことが好きだった記憶、踏みにじられて絶望した記憶、それを愛おしいと言ってくれたあの人。振りまきなさい。やられたならやり返せ。絶望は美しい。絶望は心地いい。

それから見慣れないあの島で――殺されてしまった記憶、も。

――ああそうか!わたしは絶望したんだった。わたしの好きなものをわたしの好きな形で愛させてくれない人たちに。わたしは絶望したんだ。絶望させられたんだ。おねぇを絶望に堕とした人たちに。わたしは絶望させられたんだ。絶望したくなんかなかったのに。絶望してやりたくなんかなかったのに。愛していたかったのに。踊り続けたかったのに!

――そしてわたしは殺されたんだ。あの人を愛したあの女に。

「っ……おにぃ……。……盾子おねぇは、……死んだんだね……」
「え……?」
「ほんとにほんとに、死んだんだね……。うわあああぁぁぁん!盾子おねぇが死んじゃった!もうわたしのために笑ってくれないんだ、いい子だねって褒めてくれないんだぁ……!」

流れ流れる記憶の海の中で、最後に頭の中に流れ込んできたのは、わたしが知りようも無いはずの、盾子おねぇの最期の姿。ああ、でも、なんでだろう。すごく、すごくほっとしたような気持ちになる。だって、もう縛られることもない。わたしがいっぱいもらった絶望を、盾子おねぇのために振りまき続ける必要ももう無いんだ。残ったのは、こうしてめちゃくちゃなまま目を覚ました抜け殻みたいなわたしと、まだ目を覚まさない真昼おねぇだけ。それから、夢の中でわたしを殺した、愚図みたいな女だけ。

「……ねぇおにぃ。もう誰かを絶望させるために踊り続けなくてもいい?」
「西園寺……?」
「もう誰にも虐められない?もう誰もおねぇを虐めない?」

だってわたしが逃げたらおねぇはきっとひとりで死んじゃう。わたしのせいでおねぇが死んだらとっても絶望的だけど、わたしはそれ以上に絶望できなくなっちゃうから、盾子おねぇは真昼おねぇをちゃんと殺してくれなかった。だけどね、わたしが頑張って絶望を振りまけば、おねぇは虐められるだけで済んだの。ぼろぼろになったおねぇは絶望的で悲しいから嬉しくて、そうやって頑張ると、盾子おねぇはわたしのことを褒めてくれたんだ。

「そんなの、馬鹿みたいだよぉ……」

馬鹿みたい。馬鹿みたいだ。そんな理論が破綻していることにさえ、気付かないまま生きてきた。いつからこうなってしまったんだろう。最初は、本当は、真昼おねぇを助けたいだけだったはずなのに。絶望を振りまきながら嬲られて、もっと絶望するわたしを、いつの間にか盾子おねぇだけが助けてくれるような気がしてた。日寄子がやってることは正しいんだよって、盾子おねぇはいつもわたしのことを褒めてくれたから。
盾子おねぇに捨てられちゃったのは、一体いつのことだったっけ。もう、何にも覚えてないけど。真昼おねぇがぼろぼろになりながらわたしのことを引っ張って、ここまで連れてきてくれたんだったような気もする。

「わたしがそこの女を殺したら、おにぃは怒る?」
「罪木を……?ああ、怒るよ。罪木は大切な仲間だからな」

ああほら、やっぱりね。おにぃはそういうところばっかり、いつもヘンにはっきりしてる。そういうところは好きだけど、今は逆らえなくなるから嫌い。

「ねぇ、じゃあそいつに殺されたわたしの気持ちはどうなるの?」
「え……?」
「島でのこと、ちゃんと覚えてるって言っても?」
「な、……お前、あの島でのこと、覚えてるのか……?」

そう言ったおにぃに「うん」って頷いてみたら、わたしの周りの奴らみんながすごく驚いた顔をしてた。分かってる。覚えているはずが無いことも分かっているけど、とにかく覚えているものは覚えている。あの後誰が殺されて、そのせいで誰が目覚めようとはしないのか。盾子おねぇが何をして、みんながあんなことになったのか。全部、全部分かるから。

――もうわたしも目を覚ます。だって変わると決めたんだ。目覚めないおねぇに約束をした。

「あはは!ばっかじゃないの!……そんなに深刻な顔しちゃって。やっぱりおにぃは騙されやすいグズだねー」
「は、はぁ……!?」
「……殺すなんて嘘だよ。わたしも、痛いのはちゃんと知ってる……」

すぐにはきっと変われない。まだ盾子おねぇを好きな気持ちも、あの女を恨む気持ちも、おねぇをあの島で殺した二人を憎む気持ちも残ってる。でも、すぐに殺してしまわないことくらいはどうにか出来る。だってあの島で約束をした。変わろうとしたわたしは、西園寺日寄子は本物だ。――本物、なんだろう。だって記憶が消えなかったんだから。
「日寄子ちゃん、大丈夫。私も一緒にこのプログラムに入るから、目が覚めたらまた一緒に写真を撮りに行きましょう」。そう言ったおねぇの言葉を信じてる。わたしは真昼おねぇの言葉しか信じない。だけど、真昼おねぇの言葉だけを、わたしはどんな時でも信じてるから。