「……まだ待ち続けるのか。貴様は」

靴の音に合わせて響いた声に見上げれば、そこには三日ぶりに姿を見せた十神白夜の姿があった。どこか呆れたように俺を見やるその瞳には、憐れみも少しばかり含まれているようにも思えてならない。たぶん、俺は随分と酷い顔をしているのだろう。こんな暗がりの部屋に一人で立ち止まり続ける必要は無い。変化があればすぐに知らせるから、少しは外に顔を出せ、と。そう言ってくれているにも関わらずこの場所から離れられないのは、ほとんど俺の意地みたいなものなのかもしれない。

「……ああ、待ち続けるよ。俺は約束したんだ。たとえこの世界で目覚めても、またみんなのことを思い出すって」

その約束を俺一人に守らせておいて、このまま眠り続けるなんて許せやしない。
そもそも強制シャットダウンの時に生き残っていた俺達五人は、タイムラグはあっても必ず目覚めるだろうと苗木が言っていた。「僕達と違ってキミ達は大量の情報をキャンセルしなければならないから、処理によってはかなりの時間がかかるかもしれないけど……」と言ってはいたけれど、いつ目覚めるかも分からないのに、一人でこの場所を離れられない。

「俺がこのままの状態で戻れたなら、もしかしたらみんなもあの島での記憶を失わずに戻れるかもしれない。……けど、そうはならずに絶望だけが残っているかもしれない。その時俺がここに居なかったら、未来機関だって何するか分からないだろ」
「何度も言うが、たとえこいつらに絶望だけが残っていようと悪いようにはしない。この場所に他の未来機関の人間が踏み入ることは無いだろう。俺達がどうこうしない限り、貴様らが死ぬようなことは無い」
「……そうじゃない。俺だってお前らが殺したいと思って殺すとは思わない。だけどさ、こいつらが絶望のまま目覚めたら、俺達が殺されかけることだってあるかもしれないだろ。その時になっても未来機関が自分の身を優先しない理由は無い。それが分かってるから、俺はここに残り続けるんだ」

言えば、十神白夜はそれきり押し黙って答えない。
別に、俺自身は苗木達を信用していないわけじゃない。コロシアイ生活を生き残ったこいつらが、あんなに酷い毎日を生き抜いたあの六人が、これ以上、わざわざ誰かが死ぬところを見たいだなんて思わないことは分かってる。
それでもこいつらは、こいつら自身が「希望」の体現者だ。俺達という「絶望」に殺されてしまえば、収束に向かいつつある世界の絶望は再び加速して行くだろう。苗木誠をはじめとした六人が――前回の「生き残り」こそが、何よりも強い希望となってこの世界を照らし始めている。彼らが生き続けることそのものが何よりも大切なのだということくらい、俺にだって分からないわけじゃない。

「たぶんカムクラのものだろうけど、俺には前回のコロシアイを見ていた記憶があるんだ。……全部覚えてるよ。もう、あんなことを繰り返すわけにはいかないだろ」
「あのコロシアイを、だと……?」
「ああ。……あまり思い出したくないものだったら悪いけど」
「いや……構わん。俺達があれを記憶から葬るということは、死んでいった人間ごと葬り去るにも等しいからな。重荷にする気は少しも無いが、忘れるのではあいつが怒るだろう」

まったく、付き合いきれん博愛主義者だ。生きている人間相手ですら碌に手が回っていないというのに。そう呆れたように呟く十神の言葉は、たぶん苗木に対して向けられているものなのだろう。文句を言いつつ行動を共にしているあたり、何だかんだで彼らは上手くやっているのだと思う。それもそうだ。あの絶望的な閉鎖空間で培った絆を打ち破れる人間なんて、どこを探してもそう見つけられるものじゃない。

「なあ、誰が先に目覚めるのか見当は付かないのか?」
「さあな。キャンセルする情報量としてはどの被験者も同程度ではあるが……こういった処理に要する速度は外的要因に因るところが大きい。当人が思い出したくないと願うなら、それだけ記憶の破棄にも時間が掛かるだろう」

ただ、と言ってから、十神は続ける。

「俺達の見立てでは、心理的なダメージはソニア・ネヴァーマインドが一番軽い。九頭龍冬彦は覚醒に成功したところで江ノ島盾子の眼球移植の記憶に耐えかねるかもしれん。終里赤音は絶食で身体的にも限界の状態だ。プログラム起動前に点滴治療は施しているが、体力が回復するまでにどの程度かかるかといったところだろう」
「……左右田は?」
「左右田和一については分からん。身体的なダメージは負っていないが、未来機関に細かいデータが残っていないのでな。当人が外部から受けた心理的ダメージの程度による、とだけ言っておく」
「そうか……わかった、ありがとう」

十神の言葉にとりあえずの礼を返して、被験者用のカプセルに目を向ける。
微動だにしない俺以外の十四人は、まるで棺に収められているかのように生気の無い眠りに落ちている。目を背けてしまいたくなるような自傷の痕がある人間、傍から見ればただ眠っているだけのようにも思える人間。三者三様のその姿は、それでも厳密には「生きて」いるのだと。その事実だけを希望に変えていなければ、俺自身も絶望に飲み込まれてしまいそうな気がした。

「あのさ、ひとつ聞きたいことがあったんだ」
「……何だ?」
「……もしも、の話だけど。もし前回のコロシアイで最後に残っていたのが別の誰かだったら、絶望に打ち勝てたって思うか?……というより、幸運が無かったら、さ」

十神白夜と同じ、未来機関所属の苗木誠。前回のコロシアイの生き残りの一人、超高校級の幸運。あいつがいたからこそ、他の五人もおそらく道標を失わずに最後まで走っていけたのだろうと思う。執拗なほどに前を向いて江ノ島盾子と戦った苗木の姿は、外の人間にも数え切れないほどの希望を与えていたはずだ。

「そうだな……十神の名にかけて俺一人でも江ノ島盾子を滅ぼした、と言いたいところだが……あの裁判に限って言えば、苗木と霧切の存在無くしては成り立たない。いずれにせよ、仮定の話などに意味は無いが……。その上であえて語るとすれば、仮に俺を含めた六人が一人でも異なっていれば、無事に脱出できたかどうかは分からんな」

つまりはおそらく無理だった、と。ああ、まだ名前も聞けていない彼の物真似は、やっぱり超高校級の詐欺師と言われるだけあってとても似ている。一段上から物を見て、自身を特別な位置に置いているものの、常に責任感が強くて他者を導くことを忘れない。合理的な割には思ったより物言いが回りくどいところも、他人への思いやりを真っ直ぐに出さないところも、何もかもが十神白夜そのものだ。

「怖いか?」
「え……?」
「お前は仲間を失うことが怖いのか、と聞いている。……貴様がここに留まる理由は所詮それだけのことだろう、日向創」
「……十神」

あれこれと理由を付けているうちは次には進めん。割り切るところを割り切らなければ、お前もいずれは絶望に戻りかねんぞ。そう息をつく十神は、たぶん俺のことを思ってそんなことを言うのだろう。
――怖くない、わけはない。だって、たった一人でこうして記憶を持ったまま目を覚まして、他の誰一人が俺のことを覚えていなかったらどうする。未来へ歩くことを誓った他の四人さえ、絶望して俺を殺そうとしたらどうする。死を選びたがったりしたらどうする。いざ事が起こったその瞬間、俺一人の力でそれを止められるのか、なんて。こんなに暗い部屋に独りで居ると、すぐに余計なことばかりを考えるんだ。

「……そうだな。日向創。お前の代の超高校級の幸運の特性を答えられるか?」
「え……」
「希望ヶ峰学園には、毎年一名の「幸運」が入学するだろう。俺達の代の苗木誠のように。……あいつの特性は単純だ。「人よりやや前向きなこと」。……ただそれ一点のみだ」
「な、たったそれだけ……?」
「ああ。それを除けば、むしろあいつは不運の部類に入るだろうな。何の才能も無いのに希望ヶ峰学園に入学し、挙句あんな事件に巻き込まれる始末だ。……だが、それが俺達を生かしたこともまた事実。……日向創。俺の言いたいことが分かるか?」

いやに真剣な調子で十神が言うせいで、俺もつい真剣になって問いへの答えを考えてしまう。十神が言おうとしていること。それはつまり――。

「俺達は、俺達が思うより「幸運」に振り回されている……?」
「……ああ、そういうことだ。加えて、得てして幸運本人には一般的に言うところの「不運」が訪れることが多い。結果、その存在は本人の意図しないところでどうあっても周囲を乱す」
「幸運を……。そういえば、あいつは……狛枝は前に言ってたな。自分に不運が訪れると、その後必ずそれを全て跳ね返すほどの幸運が起きる、って」
「ほう……?」

そして、その狛枝が最後に起こした「あの事件」は、おそらく狛枝にとってこの上ない「不運」。もとよりあいつが心から望んでいたのは、ただ「希望」のために死ぬことだ。俺達絶望を駆逐するために死ぬことじゃない。
あの時七海が生き残っていたのなら、狛枝にとってあれは「幸運」のひとつに数えられたのだろう。それでも、俺達はあいつに勝った。未来機関を、七海を生かしたかったあいつにとって、この結末はこの上ない不幸と言っても良いはずだ。

「……そうだ。あいつには、まだ幸運の跳ね返りが来ていないんだ」

それはつまり、有り余るほどの絶望を糧にした、限りない「希望」の創造の足音に他ならないと。俺は、あの力をそう信じて良いのだろうか。他人に対してさえ作用する、あのどうしようもなく不可解で、どうしようもなく厄介なあの能力を。

「……けど、周りの不幸も巻き起こすんだ、あいつの幸運は」
「そればかりはどういうさじ加減で出るかは分からん。だが、俺達に付き纏う幸運は狛枝凪斗のものだけではない。呆れるほど前向きで、どこまでも希望を信じ抜くお節介な幸運も居ることだからな。楽観視しろとは言わないが、ただ待ち続ける失望に身を委ねる必要は無いだろう?」
「それ、は……」
「……今出来ることをしろ、日向創。仲間を信じるのなら、立ち止まらずにここから進め。どんなことでもいい。歩むことを止めれば、そこには絶望しか待ち受けてはいない」

この先この島に留まり続けると言うのなら、それ相応の準備をする必要もあるだろう。ならば今は俺達を信じるのではなく、仲間達を信じてやれ。お前に起きたその奇跡が、お前の仲間をも希望に引きずって行くその可能性をな。そう言って立ち上がった十神は、そのまま何も言わずに部屋を出て行こうと背を向ける。

「おい、ちょっと……」
「数時間もすれば苗木がここへ来る。ここを出るならあいつに話せ。……あいつなら、この場所で何があろうとお前達のことを殺しはしない。……未来機関が殺せと言おうが、たとえあいつ自身が死ぬことになろうが、だ」

まあ、あいつがそうでなければお前達は今頃とっくに生きてはいないがな。言い捨てるように、けれどふ、と笑みを浮かべて、十神白夜はその言葉を最後に扉の向こうへ消えて行った。

「必ず、全員で……」

――必ず全員揃って、この島を出よう。

いつだったか口にした重苦しい響きだけをかみ締めるように、静まり返ったこの部屋で、俺は小さく拳を握る。

――ああ、そうか。やらなければいけないことは、ここで孤独に打ちひしがれて、誰かの目覚めに怯えることなんかじゃなかったんだ。こいつらを信じて、時には待って、いつか全員で帰るための方法を探すことだったんだ。

ふと気が付けば、十神が出て行った扉の隙間から、少しだけ朝日が漏れている。

永く広がり続ける暗闇に、久しぶりに眩しさを感じたような、気がした。