「オイ、そんなトコに突っ立って何してやがる」

暗がりに向かって左右田和一が声を掛ければ、その声は少しだけ反響して、それきり返事は返らない。そのままつかつかと真っ暗な部屋に踏み入って、左右田は問答無用で照明のスイッチを押した。

「……ったく、そろそろ交代の時間だっつーのに来ねぇから様子見に来てやったら……。終里のヤツはどーしたんだよ?一緒だったハズだろ?」

いやに荒れ果てた室内を見回して、左右田は「またやったのか」と溜め息を吐いた。この部屋からは一切の凶器を取り除いてあったから、自殺される心配はひとまず無い――それでも、以前ならあったかもしれないが、今はとりあえず無い――ものの、毎度こうして部屋をめちゃくちゃにされるのでは敵わない。
取り立てて用事の無い一日は、大抵この旧館のホールに誰か一人が付いて、仲間たちが眠る部屋に別の一人が付いている。レストランのロビーではなくこの旧館を待機場所に選んだのは、このメインホールが人一人生活するのに十分な広さであることはもちろん、配置されている物の量が圧倒的に少ないからだ。単純に環境としてはレストランを利用した方が何かと都合が良いのだが、あの場所には凶器になり得るものがありすぎる。何しろ二階の厨房部分と直結しているあたり、危なくてとても利用できたものではない。
当初は何も付けられていなかったが、この場所を活用しようと決めた日に左右田が外から鍵を掛けられるように少々改造を施したので、今は完全に外から閉め出すことさえできる。窓も無いため、中に閉じ込められればそこから逃げ出しようが無い。

――この場所ならまず死なせない。そう思ったからこそ、彼らは九頭龍冬彦をここに軟禁している。

「オイ、聞いてんのかって。終里は――うおっ!」

そうして左右田が室内に踏み込んだタイミングで、九頭龍は崩れ落ちるように壁際にもたれて、そのまま意識を手放した。驚きのあまり慌てて近づいてみれば、どうやら気絶しているだけのようだ。

「おう、左右田じゃねぇか!ワリーな、もう時間か?」
「ああ、そうだぜ……って、ちょ、オイ、オメー傷だらけじゃねぇか!大丈夫かよ!」
「いやー、コイツとバトったら思ったより苦戦しちまってさ!ま、平気だからあんま気にすんなよな!」

そう言ってあっけらかんと笑う終里赤音の身体には、腕に青痣が幾つかと、脚にもかなりの打撲があった。取っ組み合いにでもなったのか、袖は破られて無残な有様だ。
それでも顔を狙わないあたり、やはり九頭龍冬彦という男は極道者なのだろう。絶望と希望の狭間に居ても、女の顔に手を出さないあたりは上等だ、と左右田は思う。――ま、今ンなとこ貫いてどーすんだって話だけどな。

「で、何でオメーは鍵も掛けずに外出てんだっつの。防犯はどこ行ったんだよ、防犯は!」
「へ、鍵掛かってなかったのか?あー、そう言われりゃ忘れてたような……」
「掛かってねぇーよ!掛かってたら何で今オレがここに居るんだっつの!……あーいや、一応ピッキングくらいは出来るか……?じゃなくて、とにかく、コイツが逃げ出してたらどーすんだよ!」
「いやー悪りぃ悪りぃ。うっかりしちまった!」
「……はァ。なんか、もういいや。ツッコミ入れる気も失せちまった……」

ぐったりと肩を落として、左右田は暢気に伸びをする終里に溜め息を吐いた。
基本的にこの部屋は施錠せず、開けたままで誰か一人が見張り役として九頭龍と過ごすことになっているのだが、見張り役の一人が席を外す時だけ左右田が後付けした鍵を使ってこの部屋を閉め切ってしまう。そのまま放っておけば何をしでかすか分からないので、これが精一杯の防衛策というわけだ。
他にもこの部屋の壁には左右田が取り付けた、レストランの二階部分、もしくは仲間たちの眠る試験施設に繋がる緊急連絡用の内線が用意されており、突然手が付けられないほど暴れだしたとか、一人では対処しようが無い状況に備えていくつか工夫が施されている。
何しろ使い物になる人材がたったの四人しか居ないため、苦し紛れの対応策を取るしかないのが現状だった。一人をこの旧館へ、もう一人を試験施設へ、別の一人を各地の連絡役としてレストランの二階へ。そうして残った一人が島内調査や食料の調達などの雑務を担う、というのが、ここ最近の確立された流れになっている。

「で、コイツは大丈夫なんだろうな?」
「ん?あぁ、手加減してやったから大丈夫だと思うぞ?つーかよぉ、手加減しなきゃなんなかったからこんなに苦戦しちまったんだよな。ったく、危なく骨の二、三本折っちまうとこだったぜ」
「オメーなぁ……。あー、まァいいや。正直気が進まねーけど、後は引き受けるわ。行ってもいいぜ」
「おう、そっか?んじゃ、これ、鍵な!えーっと、オレの次の場所は……」
「……レストランだろ。ったく、あんまり連絡しねぇでいたら試験施設のソニアさんが不安がんだろ。さっさとしろよな」

呆れたように左右田は言って、終里から部屋の鍵を受け取る。気絶させられて部屋の片隅に放り出されたままの九頭龍から少し離れて、壁に背を預けて座り込んだ。

「ったく、相変わらずテンション下がる部屋だな……」



***



あれから一時間ほどが経つ。左右田は簡易モニターに改造を施しながら、粛々とこの部屋でのひと時を過ごしていた。
取り急ぎ連絡用の内線を取り付けはしたが、可能であればモニターで互いの顔を確認できたほうが何かと都合が良いだろう。その場で見せたいものもあるだろうし、特にこの部屋であれば、九頭龍の様子を外から逐一確認することもできる。先日、左右田が外回りの時にたまたま電気街で使えそうな部品を見つけていたので、こうして改造に勤しんでいるというわけだ。

「あー、駄目だ。気ィ散る……」

ぽつりと呟いて、左右田はそこで一度作業を取りやめる。目を覚まさない九頭龍がどうにも気に掛かってしまって、作業にもいまひとつ身が入らない。
そもそもこの場所に九頭龍が軟禁されるに至ったのは、強制シャットダウン後に目を覚ましてからの各々の状態にあった。江ノ島盾子に乗っ取られたプログラムからどうにか脱出したあの後、一番最初に目を覚ましたのは日向で、その次に目覚めたのがソニアだった。この二人にはほとんど記憶の混濁も見られずに、プログラム被験前にも身体機能を損なっているわけではなかったため、すぐに活動することが出来たようだ。そこから数日空けて意識を取り戻したのが左右田和一。彼には多少の混乱が見られたものの、時間が経つにつれて島での記憶を思い出し、襲い来る絶望を振り切るに至っている。四番目に目を覚ました終里赤音も最初こそ絶望病に罹ったあの時のように怯えきっていたけれど、三人が島での記憶を根気強く聴かせることで、どうにか元の状態を取り戻させた。
――そうして最後に目覚めたのが九頭龍冬彦。彼だけが未だ絶望を振り切ることが出来ずに、この場所に囚われの身になっている。

「はァ……」

憂鬱の吐息をして、左右田は九頭龍が目覚めた日のことを思い出す。九頭龍は何も、あの島での全てを忘れてしまったわけではない。例えるなら「癇癪を起こしている」といった感じで、頭では分かっていても、気持ちが追いついてこないのだろう。
こうまで九頭龍を絶望の狭間に叩き込む理由はたったひとつ。彼は絶望に堕ちたその時、江ノ島盾子の眼球をその身に移植してしまったのだ。それに付きまとう溢れかねないほどの絶望の記憶が、あの島で誓い合った希望を遥かに上回って、九頭龍に絶望を強いるのだと思う。

「……ん……」

そうこうしていると、鉄板で打ち付けられた窓際の九頭龍が僅かに身じろぎをして、そのままゆっくりと目を覚ました。悪夢にうなされた後のように疲れきったその瞳には、薄弱な闇色が宿っている。

「オレは……?」

ぼんやりとした意識で九頭龍がぐるりと見回した部屋には、散乱した紙類と、やや臨戦態勢で自分を見やる左右田の姿があった。そこで、おそらく紙類は終里が読んでいた書類の類だろう、と思い出す。大して頭には入っていなかったようだが、「日向に読めって言われちまってさぁ……」とぼやいていたのを何となくだが覚えている。
――それにしても、身体のあちこちが痛む。とは言っても、これはここ最近ほとんど毎日感じている痛みだったような気もするが。時間はただ何となく過ぎていくばかりで、目が覚めるたび、今がいつなのかも判然としない。

「……目ェ覚めたかよ、お坊ちゃん」

様子が落ち着いているらしいことに内心盛大にほっとして、左右田は九頭龍に呆れたような言葉を投げる。ここでの九頭龍は丸腰だから、最悪の場合は体格差でどうとでもなる。安全性の面からソニアをこの場所に待機させることは基本的に無いため、ここの守り手として一番貧弱なのは自分だが、それでも何度か迎撃に成功している以上、一応問題は無いということで良いのだろう。

「また食ってねーだろ、昼飯。ったく、せっかくソニアさんがレストランから運んできてくれてたってのに……。オメーは非国民かっつの」

手を付けられずに部屋の片隅のテーブルに置かれたままのトレイを見やって、左右田は弱々しいまでの九頭龍を軽く咎める。責めの口調にはところどころ労りが入り混じってしまって、彼もまた現状を憂いでいるのだということを隠しきれてはいなかった。

「さっき居たのは、終里のヤツか……?」
「ん?……あァ、そうだよ。ま、アイツはバケモン並みの生命力してっからよ、あんま気にすんなって。マジで明日ンなりゃ治ってるだろうからな」
「そうか……」

後悔の表情を浮かべる九頭龍にいくらか慰めの言葉を掛けてから、左右田はそれきり黙りこんでしまった九頭龍を複雑な表情でただ見やる。こうして落ち着いている時は、九頭龍冬彦は仁義に厚い左右田たちのよく知る九頭龍でしかないのだが、何を切っ掛けにして絶望のスイッチが入るのかが分からないため、どうしても安心しきってしまうことが出来ずにいた。
眼帯をした左目の存在を必要以上に意識してしまうせいもあるのだろうが、絶望に屈して暴力に身を任せる自分に失望してしまう悪循環だったり、極道として無様な姿を仲間たちに見せる屈辱だったり、まあ、コイツにもいろいろあるんだろう。何もかもが自分を悪い方に、悪い方に引きずっていってしまう悪癖は、オレにも分からないわけじゃないしな。左右田は思ってから、傍らに用意しておいた救急箱を手に取った。

「……ほら、腕出せよ。だいぶやられてんだろ?」
「な……っ」
「あー、意地張んのはナシだぜ。終里のヤツのことだしな、どうせ手当てとか何もしてねぇんだろ。ったく、アイツは放っといても治るかもしんねーけどよ、並の人間の耐久力を考えろって話だよな」

オレ、アイツに殴られたらマジで終わりだと思うわ。げんなりした様子で左右田は言って、九頭龍の腕に手早く包帯を巻きつけていく。「超高校級のメカニック」だけあって、左右田は何かと手先が器用だ。「超高校級の保険委員」の罪木蜜柑のように専門的な知識があるわけではないが、機械いじりなんてものをやっていると何かと生傷が絶えなかったりするものだから、最低限の応急処置くらいは身につけていた。

「……オイ、テメェはオレがここでまた襲い掛かったらどうするつもりだ?」
「え、ちょっと待て。もしかしてヤベェのか……?」
「……もしもの話だっつってんだろ。アイツに随分やられちまったからな。情けねぇが、そうしたくなったところでしばらくは動けねぇよ」
「何だよ、ビビったじゃねぇか……」

心から安堵の息をついて、左右田は巻きつけた包帯を要領よく固定する。併せて、反対の腕に付いた引っかき傷は一応消毒をしておいた。九頭龍の方はどうやら衣服のほうに被害は無く、生傷だけで済んだらしい。

「……悪いな。恩に着るぜ……」
「ちょ、オメー、気持ち悪いこと言ってんじゃねぇよ……。マジで身の危険感じるじゃねーか……」

そうして左右田が失礼極まりない発言をしても、九頭龍は取り立ててそれに噛み付くことも無く、疲れた顔で空の見えない窓際をぼんやりと見やるだけだった。
――折り合いが、付けられない自分をこの上なく疎ましく思う。全てを背負えない自分を殺したいほど憎らしいと思う。命を懸けて守られた自分が、それに報いられない姿を惨めだと思う。それなのに、想いを受け取ってしまって「生かされた」以上、死ぬことすら自由にならない。ただただもどかしい毎日だ。わだかまりを抱えて、それを当たり散らすことでしか解放できない自分が愚かしくてたまらない。

「……とりあえず、冷めちまったけどメシでも食えよ。餓死されちゃ寝覚め悪りぃしな」
「オレは別に……」
「けど、オメーもう三日は何も食ってねぇだろ?そろそろ限界じゃねぇか?」

あのプログラムの中でビックリハウスに閉じ込められた時も、三日食べなかっただけで相当堪えたんだよな。左右田は陰鬱な記憶を思い出し、目の前の九頭龍を一瞥する。その状態でさっきのあの暴れようだ。さすがに倒れたところでおかしくはない。

「オレのことは気にしなくていい。別に――」

食事なんか要らない、と。九頭龍が改めて左右田の提案を拒否しようとした瞬間。ついに痺れを切らしたのか、それを遮るかのように左右田が勢い良く立ち上がる。その勢いを保ったままで「あーもう!」と大声を出してから、弾丸のように言葉を紡いだ。

「暴れてぇ時に暴れらんなきゃ話になんねーだろうが!オメーみたいなチビの相手、いつでもしてやるからさっさと万全にしてかかって来いってんだよ!……調子狂うんだよ。あんま静かにされてっと……!」
「左右田……?」
「何のためにどいつもこいつもオメーのこと見張ってると思ってんだよ?オメーを死なせねぇためだろーが!いいか、聞いて驚くなよ?言っとくけどな、オレはそんな状態のオメーといんのはホントはマジ怖ェんだよ!だってそうだろ?いくら丸腰だからって、どんなスゲー暗殺術持ってるかも分かんねぇしよぉ……!大体なァ、オレの人生の中にはオメーみてぇなマジモンと関わる予定なんざ無かったんだ。フツーに機械いじって暮らして夢叶えて満足して、そんで穏やかに死ねればそれで良かったんだ……!」

怒涛の言葉に息を荒げて、左右田は続ける。

「……けどなァ、それでもオメーは仲間なんだ。極道だとか、裏の世界だとか、そーいうのは正直怖ェけどよ……。ンな物騒なモンである前に、オメーはオレらの仲間なんだろうが……」

だからせめて、自分から死にかねないようなことするんじゃねぇよ、と。後に引けなくなったのか、逃げ腰で涙混じりの左右田は「ああ、言っちまった……」と呟いて、真っ青になったままで固まっている。

「あー、……その。えー……悪い、つい……」

黙り込んでしまった九頭龍に身の危険を感じたのか、急速に勢いを弱めて、左右田は視線を逸らしたままで呟く。

「……おい」
「ヒイィ!はい!」
「……食事、持ってきてくれや」
「は、ハイ!……って、へ……?」
「ソニアの奴には後で謝っておく。オレの都合で受け取れなかったのは悪かったからな……」

気恥ずかしそうにそうとだけ言って、九頭龍は左右田からふい、と顔を背ける。それに一瞬ぽかんとしたような顔をして、左右田は「ああ……」とだけ言って部屋の隅からソニアの持ち込んで来たトレイを運んでやった。

――誰に向かってそんな口利いてやがるんだ、とか。ナメた真似してっと殺すぞ、だとか。先ほどの左右田の言葉には、不思議と歯向かう気が起きずに九頭龍は口を噤んだ。それが紛れも無く九頭龍を、仲間を思う本心であり、臆病な左右田から飛び出した、精一杯の口上であると分かったからだ。

「……オレはこの先、テメェを殺る勢いで殴りかかるかもしれないぜ」

箸を動かす手を止めて、ふいに九頭龍は呟く。

「あー、つーか今までも十分本気だったろ。今まで何回明日が最期なんじゃねぇかと思ったか分かんねぇよ……」
「……そうか。情けねぇ話だが、どのタイミングで「ああなる」のか、自分でもよく分かってねぇんだ。ったく、惨めったらありゃしねぇ。こんな無様な姿をテメェらに晒すことになるなんてな……」

まるで江ノ島盾子の「絶望」に呪われているのではないかと思うほど、それは唐突に湧き上がる狂おしいほどの激情だった。あのプログラムに身を置くことで「絶望」ではなくなってしまったからこそ、九頭龍は絶望の記憶に身を焼かれ、それを甘受することも、他人事だと放棄することも出来なくなってしまっているのだろう。

「……ま、オメーが何だろうと見捨てないでいてやるよ。正直人数不足で死にそうだけどよ、その辺は日向のヤツも頑張ってくれてるし……。とりあえずは安心して任せとけって。……ただ、あんま悠長にしてっと辺古山が先に目覚めちまうかもしんねーけどな」

オメーがそんなんなってるって知ったらアイツ、マジで無理やり起きてきそうだし。そう言ってハハ、と苦笑した左右田に、九頭龍は悲哀ともつかない表情で少し笑った。

「分かったら、夕飯食えなくなる前にさっさと昼飯食っちまえ。ソニアさんのことだから、昼飯フイにしようとした非国民にでも、ちゃんと夕飯持ってきてくださると思うぜ?」
「……ああ。そうか。そうだな……」