思えば、幼い頃から虐められ続けて生きてきたように思います。自慢の髪をざんばらに切られて、頭から水を被せられて、机の上に花を飾られて。だから、「超高校級の保健委員」として希望ヶ峰学園に入学の誘いを受けたときは、勘違いなんじゃないかと思ったと同時に、夢のようだ、とも思いました。こんな私でも私なりの才能を認められて、必要とされているんだって。こんなに素敵なことはないだろう、って。
 それぞれが唯一の才能を持っているあの学園でなら、もう虐められなくても済むかもしれない。私は私の正しいと思うことに胸を張って、今度こそ生きていけるんじゃないかって、そう思ったんです。私が伸ばしてみたかったように髪を整えて、バケツの水はトイレ掃除のためだけに使って、教室の隅に置いてある忘れられそうなお花は私がちゃんと育ててあげて。それで綺麗に咲いてくれたなら、「このお花は私がお世話したんですよ」って言うんです。そうしたら、「やっぱり超高校級の保健委員はすごいな」って、私は注目を浴びちゃったりするかもしれません。ああ、でも、その場合、クラスメイトに「超高校級の風紀委員」さんや「超高校級の植物学者」さんが居ないことをお祈りしなければならないんですけれど。
 とにかく、私の希望ヶ峰学園に対しての期待はとても大きくて、それが裏切られることなんて、少しも考えてはいなかったんです。少なくとも、あの頃はまだ。
「ちょっと、罪木……?」
 目の前に座り込んだ西園寺さんは、私が片手にしている医療用のメスに怯えたような顔をして、かたかたと震えています。相当怖がっているのでしょう。彼女はいつもの「ドブス」とか「ゲロブタ」という呼び名を使わずに、正しい名前を口にしてくれているようです。
 ――ちゃんと私の名前、知っていただけていたんですね。それだけでも、まだ少し救われたような気がします。
「このままあなたの髪をばらばらに切ってしまったらどうなるんでしょうね? 怯えてくれますか? もっと怖がってくれますか?」
「や、やめ……」
 今にも泣き出しそうな西園寺さんは、弱々しいまでに私を見上げて、祈るように瞳を潤ませているばかりです。
 ――この表情を見ていると、私は私を思い出すようで、ひどく疎ましさに襲われてしまいます。どうしたら助けてもらえるか。どうしたら許してもらえるか。無力なままそればかりを考えて、結局何も思いつかずに時間が過ぎてくれるのを待っているだけ。「お前を見てると虐めたくなる」と、よく言われて生きてきたんですけれど。今ならその意味も、少しは分かるような気がします。
「……私がそんなに怖いですか?」
 あなたを殺した私のことが、あなたはそんなに怖いんですか。そんなことを問い掛ければ、西園寺さんはぎゅっと瞳を閉じて、「誰があんたなんかを……」と見え透いた強がりを言うだけです。何も出来ずに震えたままで、諦めてしまっているはずなのに、傷つきたくないと思ってしまうことさえも、彼女は傲慢だとは思わないのでしょう。
「……西園寺さん」
 そうして私は彼女に詰め寄って、ずっと、ずっと聞いてみたかったことを口にするんです。こうして刃物を手にする立場がどんなものかは分かりました。相手の尊厳を一方的に奪う、どうしようもない心地よさも知りました。これは――そう、一言で言うなら麻薬みたいなもので――確かに一度踏み入れてしまえば、抜け出せないような甘美な感覚なのかもしれません。虐められっ子が力を持つことで、虐めっ子に変わるということが往々にしてあると聞きました。確かに、そうでしょう。今まで虐げられて怯えているだけだった相手を、私の力で恐怖の淵に追いやることができる。こんなに圧倒的な支配感は他にありません。だけど、だからこそ。だからこそ、私はこう尋ねるんです。
「……私の、気持ちが分かりましたか?」
「あんた、の……?」
 言えば、西園寺さんはよく分からないとでも言いたそうな顔をして、向けられる刃物から必死に目を逸らそうとしています。ああ、一度支配してしまえばこんなにも脆いものなんだって、知っていたらあの頃私はもう少し笑って生きられたのかもしれないのに。私を虐げるものが絶対なんてことはないんだって。彼女にもちゃんと怖いものがあって、目を背けたいものがあって、ふとした瞬間に立場が逆転するなんてことは、世界中のどこでだって、当たり前に起こり得ることなんだって。
「虐めていた人間に虐められる気持ちって、どんなものなんでしょうか? 絶望的ですか? 後悔してますか?」
 改めて聞いてみたら、西園寺さんは言葉もなく息を呑んで、ふるふると首を横に振ってみせました。たぶん、本当に「後悔していない」のではなくて、彼女は「そう思いたくない」だけなのでしょう。人は何かを思い込むことで、傷つくことから逃れようとするものですから。
 別に、私は西園寺さんを殺したいというわけではありません。こうして凶器を持ち出してきたのだって、別に彼女を傷つけるためのものでもありません。ただ、どうしても「この問いかけ」をしてみたくて。こうしてこんな状況を作り出してみただけ。ただ、それだけのことなんです。
「後悔していないと仰るんですか? 私から生きる意味を奪って、あのひとまで奪ったあなたが?」
 「あんたには生きている意味がない」とか、「そうやって一生誰かに寄生して生きていればいい」とか。今までの人生の中で、何度も何度も言われ続けて生きてきましたけど。私はただ、ただあの場所に立っていたかっただけなんです。存在することを許されてさえいれば、私はそれで良かったのに。それさえも奪おうとする彼女が、今もなおそれを「後悔していない」と誤魔化そうとするその事実が、私には許せそうにありません。
「あのひと、って……江ノ島盾子のこと? あんなヤツ、殺すに決まってんじゃん……!」
「あんなヤツ? 殺すに決まってる……? どうして? あのひとが絶望だからですか? 絶望が敵だからですか?」
「全部だよ! あんなヤツ、存在していいわけないじゃん! あんな、人の絶望を見て喜んでるようなキモいヤツ……!」
 私が言えば、西園寺さんは信じられないようなものを見る目で私の方を見やって、あのひとのことを否定します。どうしてでしょう。どうして分かってくれないんでしょう。だって、あのひとは私にとっての全てなのに。あのひとこそが、あのひとだけが、私にとって存在していてほしいただ一人のひとだったのに。
「あなたはまた、誰かが存在することさえ否定するんですね」
 あのひとのことも、私のことも。そう考えると、なんだか胸がかき乱されるような気分です。怒りと悲しみで爆発してしまいそうな心のままで、私が西園寺さんの方へ一歩踏み出せば、彼女は小さく怯えた声を出しながら、何かに耐えるように唇を噛み締めました。
「わ、悪いヤツのことを悪いって言って何がいけないっての……? だって悪人じゃん! 異常じゃん! あんな絶望を撒き散らして歩いてるようなヤツ、死んだ方がみんなのためじゃん……!」
「そんなことない!」
「ひっ……」
「あのひとが悪人? 絶望を撒き散らす……? そんなこと、私にとってはどうでもいいんです。私にはあのひとが全てだったのに! あのひとがいてくれればそれで良かったのに……!」
「つ、罪木……?」
「ねえ、西園寺さん。死ねと言われて屋上に立ったことのある人間の気持ちが分かりますか? そこで飛び降りられない苦しみが分かりますか? 死にたいと思ったのに、死ねる方法だってちゃんと知ってるのに、そうすることもできない臆病な自分を殺したくてたまらない気持ちが、あなたなんかに分かりますか?」
「何……?」
「靴を揃えて屋上に立って、フェンスに手を掛けて……空を見上げたら、とっても高い青空なんです。それがとても綺麗で、今日死んだら幸せになれるかもしれないって……! そう思うのに怖くなる馬鹿な私の気持ちが、あなたなんかに分かるんですか……?」
 分かるはずがない。自分で消える自由さえも選べない愚図な私のあの日の出会いを、彼女なんかに理解できるわけがない。どんなに語ったところで。どんなに叫んでみたところで。
「あのひとだけなんです……! 私が生きてる理由はあのひとだけなの! だってあのひと以外、誰も生きてていいよなんて言ってくれなかった……!」
「え……?」
「みんなが死ねって言うから私、ちゃんと死のうとしたんですよ? そんなに私に死んでほしいって思うなら、ほんとに死んじゃったら、ちょっとは後悔してくれるんじゃないかって思って……。ほ、本校舎って、屋上、誰もいないから。ひとりで死ぬのにはちょうどいいんです。高さ、あるから……変に生き残る心配も、なくて……」
 報復だったんです。死ぬことは私の復讐だったの。誰かに後悔してほしかったの。誰かに嘆かれたかったの。そんなどうしようもないことが、私の頭で思いつく、精一杯の抵抗だったの。
 ――おかしいと思いますよね? だって、今考えてみたら、どうせ誰も嘆いてくれるわけがなかったのに。
「逃げるために死にたいわけじゃなかったんです。生きていることが辛いから死にたいわけじゃなかった。だ、だから結局、死ねなかったんです。馬鹿みたいですよね……? 私、生きていたかったみたいなんです。どうせ生きてたって「死ね」って言われ続ける世界でなんて、生きてたって、い、意味なんて無いのに……」
「あ……」
「それで、し、死ねないまま迷ってたら、声、掛けられたんです。こんな私にですよ……? 今から死のうとしてて……なのに、し、死ねもしないような愚図なわ、私に……あのひとはこう言ってくれたんです。「別にわざわざ死ぬ必要なんてないんじゃない?」、って……」
 誰もが羨むような可愛らしい格好で、きっと好きに生きて、私になんて目もくれずに歩いて行きそうな素敵な人が、よりにもよって私なんかに声を掛けて、「死ぬな」と言ってくれたんです。こんな、掃いて捨てても誰も気付かないような取るに足らない私の人生の中で、これ以上の素晴らしい奇跡があるでしょうか。今まで誰にも「生きろ」と言われたことが無かった私に、あのひとは生きる理由をくれたんです。
「復讐なんかで黙って死ぬくらいなら、全員絶望させてやればいいんだ、って……。あの人はそう言って、私の手を引いてくれたんです。死ななくていいよって。そんなことよりずっと楽しいことがあるよって」
 「確かに青空って見ててキレイだけどさ、アレって結局、アタシ達の手ではどーにもならないモンじゃん? だからさ、どうせなら壊せるものを壊せばいいのよ」と言って。にっこり笑ったあのひとの手のひらは、とてもあたたかくて、握った先から溶けてしまいそうなほど尊いものでした。
「たった独りで生きてきた私に! こんなどうしようもなく愚図な私に……! こ、心の中では……いつも、あなたがし、死ねばって……思ってるのに、そんなこと、言えないから……せめて死んでみようとしたら、し、死ねもしないくらい、私は弱くて……!」
 そんな私に、あのひとだけが理由をくれた。「わざわざ独りで死ぬなんてもったいない。そんなに無駄なことするならさ、アタシの絶望のためにアンタの命ちょうだい」と言って。そう言って、私を望んでくれたから。私に生きてほしいと言ったから。
「だから私にはあのひとしかいないんです。……あのひとしかいないの……!」
 私に死ねと言わなかった人はあの人が初めてなの。ずっとずっと生きてきて、こんなにも、こんなにも小さな願いだけ許されたくて、でも許されなくて、そうやって生きてきた私が、初めて生きていていいと言われたの。生きていてほしいと言われたの。
「……それを、あなたは否定するって言うんですか?」
 涙が止まらないから放っておいたら、わけのわからない抑揚が付いてしまったけれど、たぶんそんなことはどうだっていいことなんだと思います。ここで涙を止めたって、あのひとが帰ってくるわけじゃないから。それなら、それなら、こんなにも身勝手だとしても、あのひとのために泣いていたほうがずっといい。この涙さえもあのひとへの絶望として捧げていたい。
「あんた、騙されてるよ……。だ、だってさ、おかしいじゃん。あんたが死なないことと、あんたがアイツの手伝いをすることって、何の繋がりがあるわけ……?」
「最初に言いませんでしたか? そんなこと、私にとっては問題じゃないんだって。いいんです。私はあのひとの手足になれるなら、そのために死んだって構わなかったんです」
 独りで死ぬことがあんなに怖かったのに、あのひとのために生きられると、望まれていると思ったら、それだけで今すぐ死んでもいいと思えました。きっと、人はああいう感情を「幸せ」と呼ぶのでしょう。そうです。私はあのひとに出会うまで、本当の意味で「誰かに尽くす幸せ」を理解していなかったんです。
「けど、あんたのことも、いつかは絶望させようってアイツは思ってたに違いないのに……!」
「知ってますよ?」
「え……?」
「いいじゃないですか。それでも。だって、あのひとが私を絶望させてくれることは、私にとっての希望でもあるんです。あのひとが私を捨てたって構わなかったの。だって、一度は望まれた私があのひとに捨てられたら、こんなにもあのひとを愛した私のことを捨てたら、あのひともきっと絶望してくれる。それって幸せなことじゃないですか? こんな考え方はいけませんか? 理解できませんか?」
「あんた……」
 狂ってる、そんなのやっぱり狂ってるよ、と。西園寺さんはそう言って、泣きそうな表情のままで私を見つめるだけでした。
 彼女はすぐに、彼女の中の物差しで正常や異常を判断しようとしますけれど。私にとっての「正常」が、こうして彼女の「異常」に映るように、彼女にとっての「正常」だって、私にとっての「異常」になり得るんです。たったそれだけのことなのに、彼女はそれを受け入れようとしてくれない。そのことが私から、世界から、あのひとを奪ったのに。それに気付かないままで、彼女はきっとこれからも、彼女にしか通用しない正義だけを振りかざそうとするんです。
「や、やだ……殺さないで……」
「殺しませんよ? あなたを殺したって、何の意味もないじゃないですか」
 それであのひとが戻ってくると言うのなら、私はきっとこのメスで何度でもあなたのことを傷つけるのに。足りなければもっともっと、確実に殺せるような道具を使って。投薬でも、もっと惨たらしい方法だって、こんなにたくさん知っているんだから。
「……私は不思議なんです、西園寺さん」
 持っていたメスを捨てると、からんからんと綺麗な音が部屋に響いて、なんだか不思議な気持ちになりました。悲しい、のともまた少し違って。虚しい、のとも、またちょっと違って。どうしようもなく、どうしようもなく、いっぱいになって、溢れそうになって、口にした言葉は震えるだけ。
「私の大事なひとはもういないのに、どうしてあなたの大切なひとは死なずに生きているんですか……?」
「え……?」
「どうして、あ、あなたなんかが、大切なひとが目覚めるのを待って、希望を持って生きているんですか……? なんで、なんで私からあのひとを奪ったあなたたちが全部もってて、私がほ、ほしいものは、全部なくなっちゃうんですか……? どうして……? 私が、そんなに悪いことをしましたか……? 死なないで、生かされて、また、だれもいないこんな世界で、私はきっと死ぬこともで、できない、のに……」
 手に入れたと思ったらこぼれてしまう。あの島で見つけたと思った。あのひとを想って死んでいけるのだと思った。あのひとを追って堕ちていく先が地獄なら、きっとそれが私の天国になるんだと思えた。それなのに、目を覚ましたら全部が夢で、それは、とても、とても幸せな夢で。
「どうして起こしたり、したんですかぁ……。あのまま、あのまま、死んじゃえたら……ぜ、全部、忘れて……あのひとのことだけ、想って……」
 それだけで私は幸せだったのに。目が覚めたら失ってしまった。あんなに残酷な夢を見せるくらいなら、いっそ最初から失ったままだと知っていたほうがずっとよかった。二度と戻らないと知っていれば、消えていったあのひとを想うだけで良かった。ずっと想い続けられると思った。あのひとのことを。あのひとのために。それなのに。――それなのに。
「青空の、日には……わざと、足を、踏み外したくなるんです。今は、と、とても高いところから、独り、きりで……」
 でも、私にはそれが出来ません。だって、私はあのひとに命を捧げたまま、あのひとに先立たれてしまったから。あのひとの言葉もなしに、私が勝手に死ぬことは許されないんです。このままずっと。永遠に言葉も無く。
「おかしいですよね? あの頃は、足を滑らせることが、あ、あんなにも、怖くて……。それなのに、今は、こんなにも、簡単だって、思えるんです……」
 死ぬことが許されなくなってから、こんなにも、まるでたまたま間違ったみたいな気軽さで、羽根のような陽だまりの中に抱かれて、死んでしまえそうな気がするなんて。
「生きていたかったから、怖かったんです。きっと……。でも今は、生きていたって意味なんかありません。あのひとがいない世界で生きていたって、そこに、どんな意味があるって言うんですか……?」
 ああ、もしかして、あのひとは知っていたんでしょうか。あのひとが死んでしまったら、私がこうして絶望したまま生き続けて――あのひとのあの言葉が、後を追うことすら許さない枷になることまで。
「……私は、またひとりぼっちです。きっと、ずっと、……今度は、声を掛けてくれるひとだっていなくて……」
 そうしてどこまでも続く絶望の中を彷徨い続けて、地獄のような、「希望」に満ちあふれた世界に生きるんです。あのひとだけが欠けた世界で。私の全てが欠けた世界で。
「どうか幸せにならないでください。……いいえ。幸せに、なるなら……どうか、忘れないでください。この世界が、誰かの不幸なのかもしれないって、こととか……。誰かの絶望が、誰かにとっては、とっても素敵な希望なのかもしれないって、こととか」
 いいですよ。それさえ忘れないでいてくれるなら、あなたみたいなひとが幸せになっても。だって、そんなことさえきっと、私にはもう関係のないことなんですから。そう口にしてみたら、なんだかとても現実から離れたような気分になって、私はそのまま彼女を置いて、ほの暗い部屋をあとにします。
 ――目の前にした今日の空は、とても高い、秋晴れの、あの日を思い出すような青空でした。手を伸ばせば、そのまま何にも届かずに。私はこうしていつまでも、死さえ求められずに歩き続けるだけなのでしょう。私に意味をくれたあのひとの、優しい面影だけを追いかけて――。二度と帰らないあのひとがくれた、身を焼くような絶望だけを抱きしめて。