「なぁ、千歳。ワイな、最近悩み事あんねん」

金ちゃんが切り出して来たそれが幾分唐突だったので、意図を呑み込めずに逡巡してしまえば、金ちゃんは不安そうな顔でこちらをじっと見つめてくる。

――まったく、この表情にはつくづく弱いったい。そぎゃん顔ばされっと、助けんわけにはいかなくなるけん。

「悩み事きゃー?なんばしよっと、金ちゃん?」

少し屈んで金ちゃんにそう問いかけてみれば、「うーん……何がどうっちゅーことはないねんけどな……」と煮え切らない金ちゃんの声。

自分自身もまたしかり、四天宝寺テニス部の面々はまったくもってこのルーキーには甘い。元気印の金ちゃんが悩みを抱えているなどという話になれば、おそらく明日以降の部活は順調に滞りを見せるだろう。果たして利用法が正しいかどうかは分からないが、己の能力によってもここで手を差し伸べなかった場合に起こる明日の惨劇はいくらか垣間見ることが出来る。もっとも、自分が明日の練習に参加するか否かは別として、だが。

「……せやなぁ。やっぱし聞いたるわ。なあ、千歳には大事な人はおるん?」
「大事な人?」

そう少し真面目なふうをして言った金ちゃんではあるけれど、それを問うた金ちゃん自身がどこか戸惑っているようにも見えなくはない。「せや。千歳がこの人大事やなぁ思う時ってどんなん?」そう続けて俺を見上げる金ちゃんは、どことなくいつもの覇気を失ってしおらしい。

「そりゃまた難しい質問ばい。大事な人にも種類があるけんね」

たとえばかけがえの無い仲間として。失えない家族として。はたまた、自分の存在を象る存在のひとつとして。

「種類?」

目を丸くして俺の言葉に「意味がわからない」とでも言いたげな金ちゃんは、半ば縋るような瞳でこちらを見やって動かない。

「そうたい。金ちゃんにとって、そん人がどぎゃん位置におるかで違うとよ」
「ワイにとって……」

この時点でどことなく察せられることと言えば、おそらくこの唐突な問いかけが、先ほど挙げた事例のうち「仲間」に該当する類のものではないのだろうということだ。大体、「テニス部のみんなはワイのめっちゃ大事な仲間なんや!」との文言を、つい2、3日前にも聞いたような気がする。その言葉がそう簡単に揺らぐような金ちゃんではないだろう。

――さて、思い返すに昨日は青学との練習試合が行われたのではなかったか。才気煥発を差し引いてしまったとしても、良いか悪いか、己のこういった類の直感はそう外れるほうではない。昔から。

「俺んとって、金ちゃんは大事な仲間たい。ばってん、金ちゃんだけじゃなか。テニス部のみんなば大事な仲間じゃ思っちょるよ」

そして、それは揺るぎない代わりに「仲間として」のものに限定される。友達や後輩であるがゆえにいつだって必要以上の何かを打ち明けることへの抵抗感が消えることは無いし、だからといって、信頼が消えることも有り得ない。いわゆる「仲間」としての枠の中で居心地の良さを追い求め、「仲間」である以上、そこから先に土足で踏み込むことは許されない。

「せや。ワイもな、テニス部の奴らみんなめっちゃ大事や思てん。それだけやない。今まで戦ってきた強い奴らはみーんなワイのライバルや思っとる。せやけど……」

その先を躊躇う金ちゃんは少し視線を逸らして、「あいつもそのはずやったん……」と困ったような顔をする。

――なるほど、要はそぎゃん悩みとや。としゃが、やっぱり昨日の試合が原因どね。

「さしより座りなっせ。急いとらんけん、のんびり話すが良かね」

どうにも長丁場になりそうな気配を感じて手ごろな木の下に腰を下ろせば、金ちゃんもそれに倣って俺の隣に腰を下ろした。

四天宝寺の校舎から少し離れたこの裏山は、人気が無い分居心地が良い。裏山への道はテニスコートからしか通じていないこともあって、この場所は四天宝寺テニス部がほとんど貸切で利用している状態だ。
もとより今日この場所で金ちゃんに会ったのは、お互いが午前の2講目の自主休校場所にこの場所を選択したからだ。午前授業に加えて部活の無い今日のこと、ごく一般的な生徒であれば、今ごろ誰もこんな場所へは寄らずに直帰していることだろう。

「せやね。金ちゃん、単刀直入に聞いても良かと?」
「へ?」
「昨日、青学のおチビさんと何かあったとや?」
「な……っ」

特に気が短いほうでもないので、煮え切らなさに辟易しているわけでも無いけれど、こうして悶々としている金ちゃんというのはなかなかに新鮮だ。面白ついでに半分からかい混じりに笑って聞けば、金ちゃんは目に見えて動揺しながら「自分、いきなり何言うとるん……!」と大きな瞳をひっきりなしに瞬かせる。

一見すると微笑ましいこれはたぶん、本人にとってはあまりにも深刻な問題なのだろう。残念ながら、自分自身にも思い当たる節がないわけではない。そもそもこういう類の感情は違和感の正体に気づくこと自体がひどく難しいのだ。特別視しているのにその感情に名前を付けることが出来ないのは、純粋な戸惑いが何割かと、近しさゆえの自重が何割かと、それから――。

「……昨日な、青学との練習試合が終わった後、ワイもっかいコシマエと試合しててん。決着つかんまま帰られたらたまらん思て」
「すごい雨降っとったけんねぇ。たしかにあの場じゃ続けるんは難しかったばってん」
「言っとっけど、ちゃーんと雨止んでから試合したで?頼むから白石には言わんといてや」
「わかっとうよ。うちの部長さんは心配性だけんねぇ」

自分から相手を積極的に理解しようとし、相手を思いやる白石は、それゆえに時折手厳しい怒りを見せる。それこそがいわゆる白石の「真面目さ」みたいなものなのだろう。部長としての在り方に悩みつつ、壁を感じながらもたしかな規範として上に立つ。自分にはとても真似できない芸当だなと、白石を見ているとよく思う。

さて、そうして誰に対しても世話を焼きがちな白石のみならず、金ちゃんのこととなると、テニス部の先輩集団はみな過剰なほどの保護者ぶりを発揮し始める。普段は冷めたツッコミを繰り返している財前でさえ、金ちゃんに対しては何かと世話を焼き出す始末だ。もちろん自分もその一端を担っていることを否定はしないが、少なくとも自分自身に限ってみれば、金ちゃんなりの衝動を否定するほど狭量でもない。立場的にも、感情的にも。

「ワイな、コシマエにだけは負けとうない。試合やれば互角やし、今までやってほんのちょっとの差で勝ったことも、負けたこともある。せやからもっと強なって、こてんぱんにしたって、ぎゃふんと言わしてやりたいとも思っとる」

――ああ、たしかにここまでなら微笑ましいライバルだけんね。そう思ったところで「けどな」と金ちゃんの言葉は続く。

「……けどな、コシマエのやつ、時々全然違うとこ見てテニスしててん。そないなってまうと、ワイのことなんてもう全然見えてへんのや」
「まあ、あのおチビさんはちょいと特別やけんねぇ。金ちゃんはそるば悔しがっとっとや?」

――ばってん、そぎゃん簡単なこたなっと無いんどとよ、ね。

「んー、せや、悔しいのもあんねん。せやけど……なんや心配になるんや。コシマエ見とるとな、独りで戦ってるっちゅーか……それがごっつ苦しそうに見えてまう」

けどな、ワイはテニスやっててそないなふうに思ったことなんか一度も無いねんし、何でコシマエにそないなこと思うんかもわからんのや。

心底困ったふうをしてそう口にする金ちゃんは、「せやから、これが何でなんか千歳に聞きたい思うたんや」と弱った瞳を向けてくる。――あえてその質問の相手に俺ば選んだんは野生の勘かい。まったく、こっちゃんルーキーも十二分にあなどれんばい。

「んー、金ちゃんはあのおチビさんば倒したい思っちょるとね?」
「当然や。参りましたー言うまでめっためたに負かしたりたいわ」
「なっと、それだけでよかと?金ちゃんは青学のおチビさんとどうありたいとや?」
「……んー、どういう意味や?」

聞けば、金ちゃんは頭を抱えて「何や、わからん!」と悩ましげに身悶えている。

――そう、それに気づいてしまった瞬間、ある意味で一線を越えてしまう。テニス仲間で、親友でありライバルだったあの頃抱いていた、無邪気で気軽な関係とは違う。相手と距離を測り直したその瞬間、引き返せない願いに気づいてしまう。時折誰をも寄せ付けず、孤独に戦うそのさまを見ていたくないと願うのは、すでに「仲間」としてのそれとは一線を画してしまっている証拠だろうと。結論付けたのは、別々の道を進んでからのことかもしれない。

「……金ちゃん、さっき俺に大事な人がおるんか聞いとったとね?」
「聞いたで。なんや、やっぱりおるんか?」
「そうじゃね。あいつんこた……前は一緒に馬鹿やっとったばってん、気付いたら仲間、とは言えんようになっとったばい」
「……どんな人やってん?」
「放っとくと何でも自分独りで抱え込む奴たい。俺ごつ不真面目じゃなかよ。ちっと責任感がありすぎるけんね、何でも後ろに置いていっちょる。……滅多に振り返ってくれん」

――そう、そぎゃんふうに頑ななあいつんこた、追い詰めたんも俺たい。俺ば不安にさせんよう、優しい言い訳ばっか重ねちょるうちに、傷ついとるのは自分の方。無理して笑っとるんも分かるけん、隣に立ちとう思うばってん、しゃんむり怖さが抜けん。

「なあ千歳、それって……」

言えば、金ちゃんが何かに気付いたふうに声を上げる。前ばかり見て突き進んでいるようで、案外と周りを見渡せているのが金ちゃんだ。けれど今、その名を出されてしまってはかなわない。あくまでも一般化された存在でなければ、耐えられない。たぶん。

「詮索はいかんとよ、金ちゃん?」
「やって……」
「なんさま、独りで戦うは辛か。あんまし背負わせすぎる前にちゃーんと気付いとうことが大切たい」
「気付く?」
「金ちゃんはコシマエ君がこつ強か思うとや?……テニスの話じゃなかよ。金ちゃんが思うコシマエ君ば、よーく思い返してみなっせ」

無我の奥の奥に至る人間の気持ちなど、想像したところで想像できるものでもない。単にストイックなだけではあの境地には至れない。天性のものを持ってしまったからこそ、理解者の居ない孤独に苛まれることもあるだろう。

それを打ち壊してやれるのは、金ちゃんのように少しでも、ほんの僅かでも対等さを意識して、心を許してしまった人間だけだ。諦めが悪くて、底抜けに明るくて、境界線すら軽々と乗り越えてしまうような金ちゃんならきっと、前ばかり向きたがる頑固者を振り向かせてくれるに違いない。

「……なあ、千歳」
「ん?」
「ワイな、コシマエんことは仲間っちゅーふうには思ってへんのや。けどな、どっちが強いか言い争って、そんで一緒に試合すんのがほんまに、ほんまに好きやねん。……せやからコシマエが悩みはって、何も見えへんようになってもうたら、ワイが何とかしたりたいと思う。……っちゅーのは、間違ごうとるんやろか?」

差し出がましい言われんのやろうけど、苦しそうにしとるコシマエ見とったら、やっぱり声掛けたるくらいしか思い付かんのや。そう力強く言い放った金ちゃんは、自信無げでもありながら、どこか決意を交えた表情でこちらを見やる。

――そう、その気付きが良くも悪くもこれからを変える。一歩踏み込みたいと願ったその瞬間、ひとくくりにしていた「戦友」は何物とも違う「特別」に姿を変える。

「間違っとらんたい、金ちゃん。ばってん、ちっと辛い道かもしれんばい。覚悟は出来とっとや?」
「んー、覚悟とか何やとか、そういうんはよう分からん。けどな、このままにしとったら離れてまうことだけは、ワイかてなんとなく分かる。……あいつ独りにしたらあかん気がしててん。周りに誰も居ないんは、コシマエかて寂しいやろ」
「そやね。金ちゃんらしくて良か。……いっちゃん決めたら、ちゃんと目ば離さんちょくしなっせ」

生まれもって孤独なら、孤独を埋めてやれるほど大きな声で呼び続ければ良い。独りきりにさせて引き返せなくなる前に、金ちゃんにできることはまだいくらでもあるだろう。他のどんな人間も踏み込めない部分にたどり着ける可能性を持っているのは、あの少年にとっては金ちゃんただ一人なのだろうと、部外者の己にさえそれとなく悟らせるから。

「なんや、千歳のハナシ聞いとったらエラいスッキリしたわ。ほんまおおきに」
「気にすること無かね。金ちゃんは俺ば大事な後輩だけん」
「……せやけど、まだ話は終わっとらんやろ?」
「へ?」
「やって、ワイの悩み解決したんはええけど、千歳ん悩みがなーんも解決しとらんもん」
「俺ん悩みとや……?」

金ちゃんの予想外の追撃に動揺してしまって、すっかり言葉を失ってしまえば、「せやろ。ただ諦めるんは解決とちゃう」と立ち上がった金ちゃんの声が響く。

――まさかそぎゃん展開で来ちょるとは思わんとよ。ばってん、今更逃げられん雰囲気になっとるばい。

「……あんな、千歳は怖いん?」

普段に似合わずいやに抑えた声音で問われたものだから、面食らって答えられずに金ちゃんの顔を見やれば、真面目なふうをした瞳が目の前に映り込む。違う、とも言えずに黙ったままで弱ってみれば、「そういうんは、辛いんとちゃうか」と金ちゃんの一言。

「ワイはな、このままコシマエと遠なってくのが怖い思てん。せやから追っ掛けて、追っ掛けて、絶対振り向かせたるってさっき決めたわ。……正直、邪魔や言われるんも怖い思てんけど、それでも前向いたる思えたんは千歳のお陰や。……けど、千歳はワイとはちゃうねんな」

なんちゅーか、追っ掛けへんで遠なることを怖がってるんやないように見えたる。そう鋭いようにも、物寂しいようにも思わせる視線を渡されて、どう答えたものかをひたすら戸惑う。

「……金ちゃん」
「あんな?勝ったもん勝ちや、言うやろ。四天宝寺テニス部の合言葉や。なぁ、それじゃダメなん?……たぶんやけど、あの部長さん、千歳んことごっつ大事や思てん」
「なしてそう思うとや?金ちゃん、桔平とは一度も……」
「それや。……今思い出したんやけどな?そういえばワイ、前に不動峰の部長さんと話したことあんねん。大会で道に迷うて弱っとったら、ちょうど真横すれ違ってん」

あん時は不動峰の部長さんのことよう知らんかったけど、ほんま助かったわぁ。言いつつどこか緊張感を崩さない金ちゃんが、発した名前につい心が逸る。ああ、これだからもう。

「……桔平に会ったとや?」
「会ったで。そんときにな、不動峰の部長さん、千歳のこと聞いとったわ。ワイ、何にも知らんかったから何や思てんけど、元気や言うたらめっちゃ嬉しそうにしとった」
「桔平が俺んこつ聞いとったと?」
「そうやて。……せやから前向いてばっかりやない。ちゃーんと振り向くときもあんねや。部長さん言うても独りじゃ頑張れんもん。白石かてせやろ?やって、そういうとき掴まえたったらええねん。ワイと違うて千歳はあの部長さんとの何年っちゅー時間があるやん。ずっと仲良しやったんなら、戻れんわけ無い」

諦めたらあかんで。せっかく近くにいててんから、千歳も頑張りや。先ほどのしおらしさはどこへやら、そうにこりと笑う金ちゃんの話を聞いていると、それなりに何とかなりそうな気がしてくるから不思議だ。なるほど、あの少年ですら心を開きかけるのも頷ける。

「なっと、そぎゃんこと言いよるばってん、俺が桔平ん近くに居るんは……」
「そないなこと、やってみんことには分からんやろ。なしてそないなってまうん?」

ふらふらしとる千歳らしゅうないわ。そう少し咎めるように言ってから、金ちゃんはこうも続ける。

「どうにもならへんくらい辛いことがあったんやったら、それ思い出さんくらい楽しなればいいやん。ちょっと気まずくなったから何や言うねん。……そんくらいで壊れてまうんは、ワイは認めとうない。絶対や」

言い切った金ちゃんにはっとして、手を引かれるような心持ちになる。そもそも、桔平が自分について尋ねた、というそれ自体に、何やらひどく動揺している、気がする。

――追い掛けても良かと?手ば掴んで、振り向かせて、「ちゃんとこっちゃん見なっせ」と言わるるのを、それだけをもうずっと、耐えちょる。

「……ほんなこて金ちゃんは前向きたい」
「千歳?」
「せやね。……もう良か、決めたばい。俺も金ちゃんば見習ってみることにしとっとよ」
「なんや、ほんまにか?あの部長さん、絶対千歳んこと待ってる思てん。いっちょ頑張りや」
「ああ、わかっとっとよ。……ありがとうな、金ちゃん」
「何言うてん。今日ありがとう言わなあかんのはワイの方やで?」

せやから千歳ん悩みが解決しててんなら、ワイはそれでええんや。そうはしゃいだ金ちゃんに、何時ぶりかの本気の笑顔を返してみれば、「なんや千歳、めっちゃ嬉しそうやん」と金ちゃんも釣られて笑う。

「はー、何やごっつ気分良く帰れそうや。せや、千歳、これからワイとテニスせえへん?ワイが勝ったらたこ焼き奢ってや」
「何ね、金ちゃんが負けたらなんばしてくれっとや?」
「せやなぁ……しゃーない、ワイのたこ焼き分けたるわ」
「そりゃまた不公平な条件ったいね……」
「なあええやん、千歳。悩み無くなったら急にテニスしたくなってしもたんや。付き合ってーな」

甘えるように「なあなあ」と取り縋ってくる金ちゃんは、すっかりいつもの調子を取り戻しているようだ。――なっと、今日くらいは言うこと聞いてあげなんばい。

「……まったく、金ちゃんはいさぎゅー元気たい。良かよ。帰る前にコートに寄ろい」
「っしゃー来たで!絶対負けへんで、千歳!」