時すでに夜。いつものように練習を終えれば、校内にはただひとつの影も見られない。帝光の部活動の華と称されるバスケ部は、他のどの部活よりも厳しい練習をこなしていることで有名だ。
用具の後片付けを終え、居慣れた六人で体育館をあとにする。おそらくこの時間になれば、校内のどこを探したところで顧問の教師くらいしか残ってはいないだろう。クールダウンは済んだ後なので、いい具合に気が安らいできているのか、練習中に見られた切々とした表情は一同の誰にも浮かべられていない。
――さて、その所為なのだろうか。玄関に向かう階段に着いてふと、黄瀬がこんなことを言い出した。
「そういやここの階段って、やけに長くないっすか?」
呟いた黄瀬に五人が立ち止まって見やれば、なるほど、たしかに普通の中学校に比べれば帝光の階段は長いだろう。一同みな気にしたことも無かったが、踊り場にたどり着くまででも優に二十段はありそうだ。一般的な階段ならせいぜい踊り場まで十数段、そこから次の階までさらに十数段といった程度の長さに違いない。
「そう言われれば……気付きませんでしたけど、確かにそうかもしれません」
黒子が同意の声を上げれば、「だから何だってんだよ」と鬱陶しげな青峰の声が響く。とうに消灯されてしまい、必要最低限の明かりしか灯らない閑散とした廊下には、各々の声がよく通る。
「決まってるじゃないっすか、青峰っち。長い階段、大人数と来たら、そりゃやることは一つっすよ」
自然と足を止める一行に、黄瀬が「ね?」と朗らかな笑みを贈れば、意図を察したらしい赤司があからさまな拒絶を滲ませて睨みを利かせ、緑間がさもありなんとばかりに溜め息を吐いた。
遅れて「……なるほど、そういうことですか」と続いた黒子も黄瀬の言わんとするところを理解しているようだが、青峰と紫原はただ疑問符を浮かべるだけだ。
「なに、なんかの遊び?」
当然のように菓子を歩き食いする紫原が興味なさげに呟けば、黄瀬は赤司の視線をかわしつつ「そうっすよ!」といっそう瞳を輝かせる。
練習中はいかなる手段をもってしても赤司に逆らうことが叶わない黄瀬ではあるが、ひとたび部活を離れてしまえば話は別だ。もちろん、立場的には限りなく赤司が天で黄瀬が地ではあるのだが、バスケ以外の空間においてはあくまでも部活を同じくする同級生に過ぎない。不機嫌そうな視線に見ぬふりをして、楽しげな提案を強行するくらいはできる。
――もっとも、明日の練習量に何らかの影響はあるかもしれないが。
「どうせオレらの貸切なんすから、ちょっとくらい遊んで帰ってもバチは当たらないっすよ」
「いいっすよね?」と黄瀬は近くの配電盤のスイッチをオンにして、踊り場へ続く階段の蛍光灯を手早く点す。無人のように思えるとはいえ、万が一ということもある。いくら誰も居ないように見えたとしても、帝光は広い。さすがに暗がりの中で学生六人がたむろしていれば怪談沙汰にもなりかねないので、ここは大人しく明るさを保っておくべきだろう。思った黄瀬の後方で腕組みをして、赤司は「おい」と苛立ちを含んだ声で棘を一切隠さない。
「勝手に話を進めるな。とっくに下校時間は過ぎているだろう」
「その通りなのだよ。今夜の蟹座は運気が悪い。早く帰宅して体制を整えなければならないというのに」
焦れたように呟く緑間は、鞄に入った携帯をちらちらと確認しては神経質な様子で壁際にもたれかかる。
現在の時刻は20時過ぎだ。おは朝で今夜は21時過ぎに出歩くのは良くないと言っていた以上、あまり長くここに留まっているわけにもいかない。何しろ今日の緑間のラッキーアイテムは板チョコだったので、練習中にすでに消費してしまっているのだ。こういう時、ラッキーアイテムが消耗品というのはいささか困る。置物やアクセサリのように、無くならないものなら安心して一日を過ごしていられるものを。
「つーか、いい加減分かるように説明しろ。オレだけ置いてくんじゃねぇ」
そこへ、苛立ちをあらわに青峰が言葉を挟む。自分を置き去りにして会話が成立している、という状況が、青峰にはどうにも面白くなかった。もちろん横暴に場を支配するつもりなどないのだが、どうやら自分も巻き込まれるらしいとなれば、やはり黙ってはおけないものだろう。
「……黄瀬君、青峰君が困ってます」
説明してあげてくれませんか、と。黒子が言えば、黄瀬はその事実に今しがた気がついたかのように、「へ?」と素っ頓狂な声を上げて青峰の方を見やる。
「あ、っと……こりゃ悪かった。えっと……つまりっすね、みんなでグリコをして帰ろう!……ってことっすよ、青峰っち」
そう言って「なかなか名案っしょ?」と笑う黄瀬に、「グリコ……?」と訝しげな表情をしてから、「おい、テツ。グリコって何だよ」と、傍に居る黒子へ問いかける。
「ええと……グリコっていうのは参加者全員でじゃんけんをして、誰が最初に階段を昇りきるか、もしくは降りきるかを競うゲームです。青峰君も聞いたことありませんか?進める段の数は勝ったときに出していた手によって違うんです。グーならグリコ、チョキならチョコレイト、パーならパイナップル、というふうに」
「あー、……そういやだいぶ昔にやったことある気ぃすんな。……ま、いいぜ。勝負事なら乗った」
「おい、青峰。安請け合いなどして勢いづかせてどうするのだよ」
「どうもこうも、勝負吹っかけられて敵前逃亡ってのも気が引けるからな。別にいいだろ?どうしてもってんならおまえだけ帰ればいい。……ま、負け犬っぽくてアレだけどな」
そう言って青峰がくつくつと笑えば、先ほどの気乗りのしない表情はどこへやら、一気に臨戦態勢に入り、「負け犬とは、どういう意味なのだよ」と緑間が青峰を睨めつける。
「当然だろ?戦いもしないで逃げるなんざ話にならねぇ。そんなのは負け犬のすることだ、ってな」
「……ふん。いいだろう、そこまで言われて黙ってなどいられないのだよ。受けて立とうではないか」
そうと決まれば、紫原、と緑間の声。赤司の傍に位置する紫原が振り向けば、現在はプレッツェルの箱を抱えて「んー?」と一言。
「チョコレートを持っていたら譲ってくれないか。できれば板チョコがベストなのだが」
「うーん、板チョコはさっき食べちった。これならある」
はい、と紫原が手渡したのは、キャンディ型に整えられたスーパーによくある大容量の袋チョコだ。それに緑間は些か複雑そうな表情を浮かべたものの、「……無いよりはましなのだよ」とだけ言って、礼とともに手のひらいっぱいにチョコレートを受け取った。
「……っと、黒子っちはいいんすか?思いつきで言っちゃったんすけど、急ぐんなら先に帰っても……」
「いえ、僕は構いません。バスケで直接勝負しても敵いませんが、これなら僕にもチャンスがありそうですし」
「……ったく、テツに甘すぎんだよ、おまえは。ここに居る以上は何でもいいから参加させとけや」
「って青峰君が言ってますけど、赤司君」
「っ……テツ、てめぇ……!」
オレを売りやがったな、とでも言いたげな視線で青峰が抗議すれば、当の黒子は事の重大さを分かっていないらしく、「え?」とだけ言ってきょとんとして青峰を見やる。その様子に毒気を抜かれてしまったのか、追及することは早々に諦めて、青峰は赤司へ視線を移した。
「……で?こいつらはやる気みたいだが、おまえはどうすんだよ、赤司」
「そうだな。参加してもいいが、条件がある」
呑むならこのゲームを認める。呑まないならこのまま解散だ。言ってから、赤司は愉しげな笑みを浮かべる。「条件?それはどういう意味ですか、赤司君?」そう黒子に問われるのを耳にして、赤司は「何、簡単なことだ」とやや挑発的に首をかしげた。
「敗者には罰ゲームを課す。内容はお前たちで決めるといい。……どうだ?勝負に見返りが無いのもつまらないと思うが」
「ちょ、赤司っち、それは――」
「ハッ、なるほどな。いいんじゃねぇの?……なら、黄瀬。おまえが負けたら明日の給食のオニオングラタンスープはいつもの半分ってことでどうだ?テツは三日間バニラシェイク禁止だな」
「青峰君、それはいくらなんでも酷いです。練習後のバニラシェイクをなんだと思っているんですか」
「あのなぁ……酷いから罰ゲームなんだろうが。苦しまない罰ゲームがあるかよ」
まあ、それはそうですけど、と食い下がる黒子の傍で、「罰ゲームとは、子どもじみているのだよ」と緑間が呟く。「給食のオニオングラタンスープってほとんど出ないんっすよ?それを半分はいくらなんでも……」とショックを受ける黄瀬の傍らで、「それじゃあ、紫原君が負けたらお菓子禁止令ですね」と気を取り直したように黒子が言えば、「なら絶対負けないもんね」と、紫原にまでスイッチが入ってしまったようだった。
「そうっすね……じゃあ、緑間っちはラッキーアイテム一日禁止令でどうっすか?」
「……ふん。その程度、明日のおは朝の順位が良ければ関係のないことなのだよ」
「そういう時に限って得てして順位は低いものだがな。青峰、お前が負けたら授業の課題を残さずこなせ。いいな」
「ちょ、マジかよ……んな罰ゲームだって分かってたら賛成してなかったぜ……」
何しろ年間百の課題があったとすれば、実に九十九は白紙のままで登校してくるのが青峰大輝という男である。バスケに関しては同じキセキの世代にさえ差を付け得る才能を秘めているが、こと勉強になれば致命的に集中力が続かない。赤司曰く「地頭は悪くない」ため「勉強に身が入れば化ける」そうなのだが、本人がやる気を見せない以上、改善される見込みは無いと言っても差し支えないだろう。
「んじゃー、赤ちんの罰ゲームは?ないの?」
「無いわけねぇだろ。ったく、オレには無茶苦茶なもん指定してきやがって……」
「赤司っちの罰ゲームは、命令禁止なんてどうっすか?試合とか普段の集合練習の時は無理でも、明日はレギュラーの自主練だけっすよね。ならその間、絶対に俺たち五人に命令しない!……とか」
黄瀬が言えば、青峰が「へぇ?」と興味ありげに耳を傾ける。あからさまに黄瀬の私情が入ったささやかな復讐ではあるのだが、黄瀬のみならず、赤司にはたびたび理不尽なほどの練習量を課せられている。良き戦友であると同時に鬼教官の一面をも持ち合わせている赤司には、緑間や青峰とて一矢報いてみたい気持ちが無いわけではないのだ。
「ふむ。悪くないのだよ。それなら参加する意義もあるというものだ」
「んじゃ、決まりだな。そうと決まればさっさと始めようぜ」