「……日向クンがそういう態度ならもういいよ」
わだかまった感情をどうすれば良いかが分からなくなって、狛枝は追い詰められたような表情でにじり寄り、日向の退路を断っていく。やっぱり一度痛い目に遭わないと分からないのかな、キミは。そう言って懐から小さなナイフを取り出すと、日向の表情がやや歪んだように強張った。
「ちょっと待て、本気か……?」
「……ボクはいつだって本気だよ?逃げ道を探してばかりいるどこかの予備学科生さんとは違ってね」
「……あのな、俺は別に逃げようとしてお前の言葉を拒んでいるわけじゃないぞ。俺がそう在ることは何の解決にもならないから、俺は俺が希望であることを認めないだけだ」
苦々しげにそう言って、日向は壁際に追い詰められたままで狛枝を見上げる。苛立ちに身を任せる狛枝に身構えつつも、状況を理解しようと神経を研ぎ澄ませることに集中する。
――やっぱり駄目だ。このまま一方的に依存させることを許してしまったら、狛枝はいつまで経っても「希望」に縋ることから抜け出せない。きっとこの先、どこまで行っても俺という人間を見ようとしない。俺が俺としてここにいることを示すためにも、俺は「希望」であることを名乗れない。絶対に。
「俺が希望になることが未来のためにはならないと思うから、俺は俺が希望であることを拒むんだよ」
「……だから、その意味が分からないって言ってるんじゃない。何だかんだ言ってるけどさ、結局、キミはキミ自身の責任から逃げてるだけなんじゃないの?……希望を背負っておきながら希望から逃げ出すなんて、それは許されない冒涜だよ。あんなに威勢良く未来がどうとか言っておいて、いざこんなことになったらキミ自身が希望で在り続けることは約束出来ない、って?」
そんなのは臆病な人間の戯れ言だよ。吐き捨てるように狛枝は言って、日向の頬に薄くナイフを滑らせる。
「っ……」
「痛い?……そう。なら、キミがキミを希望であると認めるまでこうして少しずつ傷を増やすよ。もちろん、殺したりはしてあげない。……キミ自身がどう思おうと、ボクにとってのキミは大切な希望だからね?」
もしもそれを認められないって言うんなら、キミ自身が何とかしてみせてよ。狛枝は鋭い瞳でそう言って、「でも、キミにはそんな器用なことは出来ないかな?」と危うげに少し笑った。
「……もし逃げるって言うんなら、拘束もしてあげるけど?」
でもさ、日向クンは嫌でしょ、そういうの。言いつつ、狛枝は日向の頬に付いた傷跡を指でなぞって、緩慢な動作で舌先を寄せる。今しがた付けられたばかりの薄紅色が疼くように痛んで、日向は苦痛に表情を歪めて狛枝を見上げた。
「逃げたりは、しない。……お前の目の前から、だけは……」
今ここで逃げたりすれば、きっとあの時と同じことを繰り返す。何も分かろうとせず、向けられた意志を底なしの悪意だと受け止め、本質など知りたくないとただ戦慄するだけのあの瞬間と。日向が思って狛枝を見やれば、狛枝は意外そうな調子で声を上げた。
「へぇ、それは勇敢だね!……素晴らしいよ。やっぱりキミは希望であるべき人間なんだ」
悦に入ったように高らかに笑って、狛枝は「それで、キミはこの状況をどうするつもりなの?」と囁くように問い掛ける。
自分が希望であることも認めない、だからと言ってこの場から逃げることもしない。挙げ句の果てには痛みをただ受け入れるつもりすら無いと言う。八方塞がりのこのどうしようもない現状を、彼は一体どう切り崩して行くと言うのだろう。それを思うと、狛枝は期待に交えてひどく苛立ちが募っていくのを感じた。
――結局のところ、日向クンのこの姿は以前と同じ威勢の良い凡人のそれと一緒なのかもしれない。ボクが期待に胸躍らせるこの感情も、最後にはあの時のように裏切られて、ボクは再び偽りの希望を信じ込まされようとしているだけなのかもしれない、と。
「……苦しいのには弱いでしょ。抵抗なんかしてないで、早く諦めちゃえばいいのに」
「誰が……」
「顔ばかりじゃ芸が無いからね。……次は指先とかどう?こういうところを狙われるのって、案外怖いかなって思うんだけど」
提案とともに涼しげな顔をした狛枝は、日向の手をとって、日向の目の届かない位置へとその手のひらを追いやってしまう。
「痛みを与えられる瞬間が分からないと狂うまでが早いってよく言うよね。……目隠ししたままとか、よくあるけどさ」
いつ傷つけられるかが分からずに、終わりの無い恐怖感に晒され続けるストレスから通常よりはるかに短い時間で気が触れる。言わずと知れた定番の拷問方法だ。
「ふふ、見物だね。プログラム世界のあの空間にすら耐えられなかったキミが、ホントにこんな理不尽に耐えられるのかな?」
あえて日向に言い聞かせるように吐息してから、狛枝はナイフの刃先を軽く日向の指先に押し当てて、そのままゆっくりと柄を引いてやる。うっすらと滲む赤色に背徳感が募ってしまって、妙に昂ぶる感覚を抑えきれない。
「――ッ!」
「傷が付くだけって分かってても、やっぱり怖いよね?実際、ボクも何度もやられたことがあるから分かるけど」
「何もしない、なんて言ってても、ホントに相手が何もしないかなんて分からないもんね?」。そう言って微笑む狛枝に日向は強い瞳を向けて、その意図を確かめるように問い掛けた。
「……っ、お前は、こんなことして、満足かよ……?」
「満足、っていうか……。これは手段なんだよ、日向クン。……分かるかな?ボクはさ、何も難しいことを言っているってわけじゃないんだ。ただキミがキミ自身を希望であると認めて、ボクに希望に満ちた明日を見せてくれると約束してくれるなら、それだけでボクは構わないんだよ」
そうすれば、ボクだってわざわざこんなことを続けたりはしないよ。そう言ってにっこりと笑んだ狛枝に、日向は痛みに耐えるように唇を噛み締めてから問い返す。
「……そもそも、お前はどうして俺を傷つけようとするんだよ。お前にとって、今の俺は希望なんだろ……?」
いくら本人が認めていないとは言え、狛枝が「希望」である人間を相手にこうして拷問のような真似をするなんて。日向が思えば、「そんなのは決まってるよ」と狛枝はやや陶酔したように日向に語る。
「希望を自覚せずに居られるよりも、キミ自身が希望であることを認めてくれた方が希望はより強く輝くからね。……ほら、たとえば目の前にものすごく価値の出るかもしれないダイヤモンドの原石があったとしてさ、それをどうにかして磨きたい、って思う気持ちは誰だって持ってるものでしょ?……それと同じだよ。放っておけば腐りかけてしまう希望も、本人が自覚することで何物にも負けない可能性に繋がっていくものだからね!」
だからこそボクはキミに、キミの中に眠る希望を認めてほしいと思うんだよ。悪びれずにそんなことを語って、狛枝は「どう?そろそろ認める気になった?」と甘みを帯びた声で囁く。
「だから、誰がそんなこと……」
「……ねえ、日向クン。何度も言うようだけど、本当はボクだってこんなことをしたくはないんだよ。こうしてキミを傷つけてるとさ、あまりの罪悪感に死にたくなってくるんだ。でも、ボクは所詮踏み台にしか過ぎないからさ。ボクがいくら死にたくなったところでそんなことはどうだっていいし、これが未来の希望に繋がって行くって言うんなら、それはボクにとっては本望だから」
キミが苦しそうな顔をするのが心苦しくないだなんてことは無いんだけど、日向クンが今痛みを覚えていることも、いつかきっと強い希望になるはずだから。だからごめんね、と。そう言った狛枝の言葉に、日向はゆるくかぶりを振って否定を返す。
「……お前は間違ってる。いいか。俺は別に、希望とか、未来への可能性から目を背けようとしているってわけじゃない」
「……まだ言うの?だからさ、それなら素直に口にすれば良いじゃない。キミは、日向創は希望という存在だ、ってね」
「だから、それは出来ないって言ってるだろ。俺は俺の中に信じるための希望を持ってはいるけど、だからって俺自身が希望そのものってわけじゃないんだ」
――俺はただ「概念」でありたくないだけだ。お前にとっての俺という存在を、「希望」だなんてよく分からない概念にしてしまいたくはない。お前こそ、一体何度言えば分かるんだよ、と。そう表情を歪めたままで断固として譲らない日向の瞳は、光を失わずに狛枝のことをじっと見据える。
「……日向クンなんて、ただの予備学科生のくせに……」
あんまり口ごたえしないでよ、と。衝動的な苛立ちとともにナイフに力を込めて、狛枝は押さえていた日向の指先を切りつける。
「――ッ!」
「そんな目で見ても駄目だよ。……最初にボクから逃げてしまわなかった時点で、日向クンの負けはもう決まってるんだから」
まあ、逃げられたりしたらそれはそれで失望しちゃうんだけどね。日向へ痛みを与えて蔑むように言った狛枝は、同時に戸惑いをも取り混ぜたような顔をして、苦痛に強く目を閉じる日向のまぶたへそっとくちづけを落とした。精一杯の贖罪にも似たその行為は、なおも歪なさまを際立たせているようでひどく危うい。
「……ねえ、痛いのは嫌いでしょ?早くこんなことは止めようって……」
揺らがない日向の瞳にばつが悪くなったのか、狛枝は少しだけ揺れたふうをして、日向からふい、と視線を逸らす。
――ああ、ねえ、どうしてそんなに頑張るの。すぐに折れるって思ったから、ほんとはこんなに傷つけるつもりじゃなかったのに。
「確かに痛いのは、勘弁だけどな……。それでも俺が俺自身を「希望」だなんてよく分からないものだと認めるわけには行かないんだよ。お前がこうすることで満足するって言うんなら、このまま気が済むまでやってみればいい」
「……そんなことをしたら壊れちゃうよ?せっかくあのコロシアイ生活を生き残ったのにさ、こんなに下らないことでキミ自身の希望を無にして狂うだなんて、あまりにも馬鹿みたいだって思わない……?」
「んなことないだろ。もしも俺がこのまま俺自身を信じ続けて狂うなら、俺が狂う瞬間がお前が負けを認める時だよ。……少なくとも俺は俺の意志でお前に屈することは無くなるし、俺自身が希望になる可能性だって永遠に無くなるからな」
「……何それ。狂っても構わないって言うの……?」
「まさか。望んでないに決まってるだろ、そんなこと。……俺は狂わない。こんな痛みなんかに負けて、何も背負えないままになんてなりたくない。……それは俺にとっての責任で、お前に向けての覚悟でもあるんだ。「希望」だなんて安易な言葉に囚われて、目の前のものから目を背けるような真似はしたくない」
だから俺は俺自身を「希望」そのものだなんて認めない。どんなに傷つけられようと、どんなに罵られようと、俺は俺のままでいる。そう決然とした言葉を日向が投げれば、「何それ、馬鹿みたい……」と嘲るように狛枝は返す。
「キミがキミ自身を希望であると認めないなら、キミはただの凡人になるんだよ?……そんなキミに何が出来るって言うの。何も無いキミが希望の指針になれるだなんて、それだけで奇跡みたいなものじゃない」
逆に言えばそれしか無いんだよ。希望であることを拒んだ日向創になんて何も無い。そんな道を選んだりして、キミは一体どうしようって言うの。狛枝が言えば、日向は「だからだよ」と一言返す。
「先から何度も言ってるだろ。……なあ、狛枝。お前を簡単に希望に依存させてなんかやらないよ。希望であることを選ばない俺を憎むって言うんなら、別に憎みたいだけ憎めばいいさ。……その代わり、ちゃんと日向創として俺を憎めよ」
「何を……?」
「出来るだろ?だって、希望でも絶望でもない俺を憎みたいって言うんなら、お前は俺という人間を見るしかなくなるんだろうからな」
「……何それ。そんなことに何の意味があるって言うの……?」
「意味か?意味ならあるさ。……なあ、狛枝。この世界に希望と絶望以外の人間が居るってことを教えてやるよ。……概念なんかじゃなく、俺っていう人間を嫌でも教え込んでやる。言っとくけど、どんなにお前が拒んだって無駄だからな。覚悟しとけよ」
どんなに狛枝が拒んだところで、日向が希望であることを拒み続ける限り、日向創はどこまで行っても「日向創」というひとりの人間でしか有り得ない。けれどあのプログラムを脱出し、こうして未来へ進んで行こうとする以上、狛枝は彼を絶望だとも認識できない。確かな未来を紡ぎながら「希望ではない」と公言する人間を形容する言葉を、狛枝はきっと知らないから。
「はは、……予備学科生でしかない凡人がよく言うよね。希望の後ろ盾を失くせば所詮は「凡人」でしかないキミが、おこがましくもボクを操れるだなんて、キミは本気でそう思ってるの?」
「ああ、思ってるよ。……お前が今こうして俺に噛み付いてる時点でな。だってお前さ、今、俺のことを「予備学科生で凡人の日向創」だって思いながら喋ってるだろ」
「――っ!」
そう。思えば予備学科生であることを知らされたあの時、こんな単純なことひとつに気付けていたのなら、手を伸ばすためにこうまで遠回りはしなかったのかもしれない。狛枝に孤独で悲愴な死を選ばせることも、そうして連鎖したいくつもの悲劇さえ、何ひとつ起こさずに済んだのかもしれない。日向はそんなことを脳裏に描いてから、後悔の全てをしまい込んで前を向く。
――けれど、過去を振り返ったところで仕方が無い。あの非現実は現実として既に起こって、取り返しなんて到底付かない。それでも、それを覆す機会はこうして与えられている。それならその可能性を見つめて、今出来ることをするだけだ。
「どうする、まだ続けるか?俺はお前の言うことは聞かないし、このまま続ければ俺は俺自身さえ失うだけだ。……残念だったな。どっちにしてもお前の負けだぞ、狛枝」
痛ましげなふうに穏やかな勝利宣言をして、日向は狛枝の瞳を見やる。戸惑いに大きく揺れたその色は既に戦意を失って、ぶつけようの無い苛立ちだけを抱えているようにも見えた。
「……何それ、馬鹿みたい。……もういい。もう知らないよ。凡人でしかない日向クンのことなんて、ボクはもう知らないから」
投げやりなふうにそう言って、狛枝は掴んでいた日向の手を勢い良く振り払い、日向のコテージを飛び出していく。後に残された日向は寂しげに少し笑って、複雑そうな顔を見せながら、安堵の吐息をいくらか零した。