ひとまず身を隠せる場所まで走り通せば、数日前まで眠り通しだった身体はものの数分で悲鳴を上げる。薄暗い倉庫のようなこの場所ならば、少しくらいは時間を稼いでいられるだろう。思った狛枝は眩暈に遠のく意識を引き止めて、壁際にすとんと背を預けた。

「ははっ……ほんと、笑っちゃう……よね」

嘲笑を交えて狛枝が吐息を漏らせば、酸素の欠如のせいなのか、ほんの僅かに語尾が震えた。それから苦しさに時折咳き込んで、笑みだけを絶やさず狛枝は思う。

――まったく希望を生み出す機関だなんて、図々しいにも程がある!だってそうだよね。こうしてほんの少しボクが不穏な動きを見せてやるだけで、彼らはすぐに蟻を潰すかのような軽さで人間一人の命を奪うんだ。あいつらはいつだって「希望」の存在の大切さを偉そうな態度で語ってるけどさ。ボクに言わせれば、あいつらにとって大切なのは「希望」なんかじゃないんだよ。だってあいつらの目的は、別に「絶望」を皆殺しにすることなんかじゃない。
――そうだなぁ。あえて言うなら「希望」に逆らう「希望」さえ存在しちゃいけない世界、っていうのかな。あいつらが目指しているのはそういう世界なんだ。人類希望化計画と見せかけた、未来機関の幹部による独裁体勢の完成。ほら、日向クンを実験台にして「あんなもの」を作っちゃったのがいい例だよ。
まぁ、確かに絶望どもを皆殺しにすれば少しは住み良くなるかもしれないけれどね。でも、こうは思わない?それって結局、「希望にあぶれちゃった希望」にとっての新たな「絶望」に過ぎないんだ、って。希望を生み出すふりをして、いずれ限られた人間以外の全てを絶望に堕とす。そんな身勝手で真っ黒な姿こそ、あの「未来機関」という組織の本性なんだ、って。

少しだけ余裕を取り戻した狛枝は、久しぶりに大きく肩で息をする。無い体力を振り絞って走って来たせいか、強く噛み締めた唇から血の味がした。
狛枝の現在の状況を説明するためには、別段多くの言葉を必要とはしない。ただひと時「絶望」が抜けていないふりをしてみただけで、未来機関が狛枝を危険因子と判断し、死をもって排斥すると決めた。彼がこんな場所に身を隠している理由なんて、たったそれだけのことなのだから。

――ああ、でもね?別に、今さら命が惜しいというわけじゃないんだよ。ボクはいつだって、希望のために死ぬ覚悟を持ち続けているからね。だけど、だからこそ、いずれ「絶望」しか生み出さなくなる未来機関なんかに殺される未来だなんて、ボクの中にはありえないんだよ。どうせ脱出する場所もないし、死ぬことからはもう逃れられないんだろうけど、それでも未来機関の人間にだけは殺されてなんかやらないよ。だってここには、もっとボクを殺すにふさわしい「希望」が居る。このどうしようもない絶望の真実を伝えるための、この上ない「希望」がちゃんと居るからね。

穏やかな心持ちで狛枝は待ち人の到着を待って、ふと無表情なまでの微笑を漏らした。たぶん、彼はボクの申し出を断ることは出来ないだろう。たとえどんなに苦しそうな顔をして拒もうと、拒めない理由くらいはもう作ってある。どんなに抵抗感を示されても、そこにいくらでもそれらしい理論を並べ立てて、最後にありったけの願いを込めて、「ねぇ、だから殺して?」と言えばいい。そうして狛枝凪斗の言葉の網に掛かってしまえば、「彼」はきっとその言葉を聞き届けるしかなくなってしまう。たとえそれがどれだけ欺瞞に満ちていようとも、どれほど彼の望まぬものであろうとも。
そこまで考えたところで、カタン、と扉が動く音がする。ああ、意外と早かったなぁ。そう思ってから、狛枝は光が差した部屋の入り口に視線をやった。

「やあ。早かったね?もう少し時間が掛かるかと思って待ってたんだけど……あぁ、やっぱりボクって駄目だなぁ」
「……狛枝」

はは、と自虐の言葉を口にする狛枝をよそに、日向はまだどこか戸惑ったような顔をして、部屋の入り口に立ち尽くしたままでいる。ひとまず未来機関の追撃を断ち切るように扉を閉め切れば、薄暗い空間が二人の間を黒く満たした。

「どうしたの、そんなところに突っ立って。やっぱり日向クンは面白いなぁ」

さすがは超高校級の予備学科生だよね。そう日向を皮肉ってくすりと笑う狛枝に、日向は少しだけ口元を歪めて「お前なぁ……」と吐息した。

「……まあいい。呼びつけたからにはまずは状況を説明しろよ。何だってこんなことになってるんだ?お前が命を狙われてるなんて……しかも、こんな急に」

まるで理解が追いつかないといったふうの日向に微笑みかけて、狛枝は「さあ、何でだろうね?日向クンはどう思う?」と、場ごと煙に巻くかのような言葉を放る。実際、この状況は狛枝以外にとってはあまりに唐突なものだろう。数日前に目を覚まし、あの島での記憶を有していることを確認し、一度はただの絶望に戻っていないことさえ認められたにもかかわらず、今こうして狛枝凪斗は未来機関に命を狙われている。無論日向達には「狛枝凪斗に絶望の兆候が見られた」という至極もっともな説明がなされているのだが、そこは曲がりなりにもあの過酷なコロシアイ生活を生き抜いた日向のこと。今さら、それを真っ向から受け取るような愚は犯さない。

「……そうだな。まずは一応聞いとくぞ。お前、絶望じゃなくなったのは嘘じゃないんだよな?」
「そこから疑うなんて、さすがは日向クンだね。うん、もちろんだよ!今、ボクの心はあらん限りの希望で満ちあふれてるんだ。それこそボク自身の手で絶望どもに両手いっぱいの失望をあげたいだなんて、ボクらしからぬおこがましいことを考えちゃうくらいにはね!」
「……ああ、いい。わかった。間違いなく絶望ではないみたいだな」

はあ、と溜め息をついて狛枝の様子に納得した日向は、立ち尽くしていた足を動かし、狛枝の傍に近づいていく。狛枝から少し離れた壁際にたどり着くと、日向もまた狛枝と同じような形で背を預けた。

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