「ははっ、キミってさ、本当に察しが良いのか悪いのか……。そうだね、キミに真実を伝えたかったことは本当だけど、確かに用事はそれだけじゃないよ」

そうして切なげに少し笑って、狛枝はそっと一呼吸置いて懐から「それ」を取り出した。日向が目を背けられないように瞬間的に投げて渡して、半ば強引に彼の手に「それ」を握らせる。

「な、おい……!」
「……今日ここにキミを呼んだのはね、日向クン。キミにお願いがあったからなんだ」
「願い……?」

そうしてようやく日向が握ったそれを見やれば、暗闇にもほの白く映える小さな光。柄の感触からして刃物だろう、と。それを理解するまでに数秒。理解してから、手渡された理由に一瞬。

「……それでボクを殺してほしいんだよ。日向クンが辛いなら、別に一撃で終わらせちゃっても構わないからさ。でも、できれば希望を感じるための時間が欲しいから、ゆっくり時間をかけてくれると嬉しいな」

躊躇うことも無くそう言って、狛枝は「どう?やってくれるかな?」と、切なげに期待を交えた表情をする。殺されることに抵抗など無いのに、狂気めいた衝動ともまた違う純粋さで語りかけられているような感覚。
――そう、まるで火あぶりを尊ぶ聖女にも似た。信じるもののために死んでいける喜びに酔いしれているかのような、歪みきっていっそ静謐な充足感。それを期待する瞳が、今この瞬間日向の目の前にはたしかにあった。初めからこう在ることが決まっていたかのような、抵抗しがたい満ち足りた幸福に、こいつは身を委ねようと言うのだろうか。

「こんなものを受け取って、俺が素直にハイそうですかなんて言うと思ったか?」
「……言うよ?キミが日向クンなら、必ず」
「何を根拠に……」
「ボクはね、日向クン。絶望のために死ぬことなんて考えられないんだ。もしあいつらに殺されるくらいなら、ボクはキミも、世界も、全てを呪って死んでいける自信があるよ」

――そう、たとえばあの空想世界でボクが起こしたような、真実に絶望した者の悪意をもって。

「もちろん、キミが逃げたいなら逃げてくれたって構わないよ。さすがに人殺しを強制する気は無いからね。……けどさ、困ったことにこのままずっとここに居ても、ボク自身はそのうち未来機関に見つかっちゃうんだよね。……それともあの女の方が早いかな?どっちにしろ、日向クンが今ここでボクを見捨てれば、ボクはこのままボクにとっての絶望に殺されるしかなくなるんだ。キミはそれを黙って見過ごせるって言うの?」

ボクを見捨てることで救えるものが何ひとつ無いこの状況なら、きっとキミはボクを薄情に見捨てたりはしないよ。自信有りげにそう語った狛枝に、日向は動きを止めてどこか不安そうな表情をする。
――どうあっても逃れることが叶わない死。もしもそれを前提とした選択肢しか用意されていないとしたなら、その中で最も幸福な方法を選ぶのは罪なのかと。要するに、狛枝が問いかけているのはそういうことだ。俺の存在を頑なに希望だと認め、だからこそこいつは日向創という希望に殺されることを望み、殺さない自由さえも許さない。
そうして狛枝凪斗は間違った最期に納得をし、未来に希望を見出して、身勝手に満ち足りたまま死んで行くのだろう。まるであの日と変わらない。希望に狂って光を愛し、それゆえ命を投げ出すような、閉じた世界を演じるだけだ。

「やだなぁ、そんなに苦しそうな顔をしないでよ。何度も言ってるよね?ボクは希望のためなら命だって惜しくないんだ、って」

だから他の誰でもない、キミに終わらせてほしいんだよ、日向クン。キミが殺してくれなかったら、ボクはこのまま絶望して死ぬしかなくなってしまうから。切実そうな響きを含めて、狛枝は懇願にも似た生々しさで右手を日向の頬に添える。「ね、ダメかな?」と。たった一言取り落とされたその言葉はどうしようもなく純粋で、ただ愛おしさに満ち溢れて、ほんの僅かな悪意も織り成されてはいなかった。
そうして触れられた手が案外とあたたかかったものだから、日向はほんの僅かに目を見開く。今までずっと、心の何処かで一線を引いて、自分と同じ存在であることを認めずにいた相手。けれど、そのぬくもりはたしかに生きた人間のものだったのだ。ひたりと肌に吸い付くような独特のあの感覚も、物欲しそうに体温を奪う業の深さも、何もかもが痛いほど、所詮は小さな「人間」であることを主張する。どれだけ得体の知れないものを抱えていようと、危うさに身を染めきってしまおうと、結局、それは人の身に収まる範囲のものでしかないのだと。

――ああ、駄目、だ。こいつが人間だったなら、その陶酔に逆らってしまえるほどに、強い言葉を俺は知らない。甘えた自己陶酔から引きずり出して、何気ない風景を見つめさせる方法なんかを俺は知らない。求められることに応えてやりたくなる俺の弱さも、応えなければ壊れてしまうこいつの脆さも、何もかもがぴたりと嵌って、このまま逃れることさえ許さない。ああ、どうすればいい。どうすればいい?これ以上こいつを壊したくはない。これ以上何も間違えたくない。もう二度と。もう二度と!

「――っ!」

次の瞬間、日向は渡されたナイフを投げ捨て、焼け焦げた感情ごと叩きつけるように狛枝を床に組み敷いた。躊躇いを覚えてしまわないようにきつく喉元を締め上げれば、目の前には一瞬驚いてから、ひどく満足そうに苦しげな表情をする狛枝の姿。――ひとつ。ふたつ。みっつ。数えたところで狛枝は何の抵抗も示さない。抵抗してくれれば止めるのに。哀願するならこの手を放す。けれど浅慮を後悔する暇も無く、日向の胸には次々と感情の波が押し寄せる。歓喜。失意。絶望。優越。困惑、悦楽、焦燥――昂揚。激しく揺れるそれらに身を委ねれば、溶けて壊れそうなほどの充足感にも晒される。
苦しさにもがくそのさまに、両の手に命が委ねられている感覚を理解する。底知れない抵抗感が強くなればなるほどに、それを押し退けるほどの情動に満たされる。嫌だ、駄目だ、殺したくはない。殺したくなんかない。だけどそれを望んでいるのはこいつじゃないか。だから問題ない。問題はない。俺は正しいことをしただけだ。求められたことをしただけだ。何も問題はない。何も。何も。――だから別に、このままだって。

「ほら、……ね……」

喉を締め上げられながら日向を見上げて、ほとんど声にならない声で、狛枝は嬉しそうににこりと笑った。ほらね、やっぱりボクの思った通りだ。希望はボクを裏切らなかった。あぁ、嬉しいなぁ、未来を担う希望が、わざわざその手でボクを終わらせてくれるだなんて。――ああ、でも、日向クンだから嬉しかったのかなぁ。うん、でも何で?日向クンが希望だったから?日向クンが絶望だったから?まぁ、別に何でもいいけど。
それにしても、押さえつけられている手のひらがあたたかくてさ、なんか安心しちゃうなぁ。こんな心地良さの中で死ねるだなんて、なんだかゾクゾクしてきたよ。うん、でもやっぱり苦しいや。あんまり苦しいのは嫌だから、そろそろ死んじゃいたい気もするかなぁ。って言っても、この苦しさがちょっと心地良い気もするんだけど。
――ああでも、やっぱりもう少しくらいは死にたくないな。だって、今この瞬間未来の希望を担うための視線は全部ボクのためだけに注がれていて、戸惑いと、後悔と、優越と、それからこんなにも素敵な歓喜の色を浮かべてくれているんだよ。ボクを殺す日向クンの希望も、ボクを生かせない日向クンの絶望も、今は全部全部、ボクなんかが独り占めしてるんだ。たとえ後に引けなくなって罪悪感でいっぱいになっても、それさえ日向クンのことを満たしてる。ボクなんかの存在が人間ひとりを壊れそうなほどの感情で埋め尽くしてるだなんて、もう、どうにかなりそうなくらいに幸せだよ。あぁ、もうボクのことしか見えないくらい、いっぱいになって泣いてくれたらいいのになぁ。

「……は……っ」

そのまま力を緩められずに圧迫されて、やがて苦しみにあえぐことさえ許されずにのた打ち回る。
そうして無意識に酸素を求めてしまうたび、与えられずに苦しみの渦に飲み込まれる。それを繰り返していくうちに、もたらされるのはふわふわと宙に浮いたような多幸感。――ありったけの愛に溺れるような快楽。死を目の前にした抗えない愛撫。それを与えてくれる彼に、どうしようもなく愛おしさを感じてしまう。

――ああ、たぶんこの愛おしさは「日向創」に向いた感情なんだろう。希望の器でしかない彼が、希望を求めるボクに従い希望を演じてくれた結果の幸福。ボクは希望を愛しているけれど、これだけは決して「希望」自身が与えてくれたものじゃないって言い切れる。今はキミが、日向創という人間の弱さだけが、きっとボクに耐え難いほどの快楽をくれているんだろう。ま、もうまともに考えられる状態じゃないから、本当のところなんて自分でもよく分からないんだけどね。

「……っ」

そうして、朦朧とした意識でトントン、と力なく日向を指でつついて、狛枝は最後の力を振り絞る。
――あのね、日向クン。たぶんボクは愛していたんだよ。どんな希望も絶望も、急な衝動も気まぐれな幸運も、そんな愚かささえも全部全部、全部。ボクが大好きなものも、ボクが大嫌いなものさえも、心の底から等しく何もかもを憎んでいたし、きっとそれと同じくらいに、何もかもを愛してたんだ。
そうと伝える代わりのように、狛枝はほんの一瞬だけ力なく笑った。

「狛枝……?」

自分の首筋に手をかける日向の左の手の甲に、狛枝は震える指先で文字を書く。愛してるよりも大好きよりも、ありがとうよりごめんねよりも、もっと手軽でどうでもいいような無意味な言葉を。ごくありふれているようでいて、いつの時もたった一度しか紡げない、実は尊いかもしれない言葉を。

――ただ、「じゃあね」とだけ、一言。

「おい、狛枝……!」

それを合図に我に返って、呆然と自分の犯した過ちを見やる日向に、狛枝はそっと瞳を閉じる。

――ねえ、日向クン。凡人で希望のキミにとっては、たぶんボクのやり方は間違ったものに映るんだろうね。ボクもそれは知っているけど、逆を言えばさ、キミが徹底的に間違いだと思うことが、ボクにとってはこの上ない正しさだったりするんだよ。ボクはボクの正しさを信じて生きているから、キミの正しさだって否定する。たったそれだけのことなんだって、キミはいつか気付くのかなぁ。
好きも嫌いも希望も絶望も、所詮はボクの中で定義しているひとつの感情に過ぎないんだよ。だからキミの行為をボクは咎めたりなんかもちろんしないし、この瞬間のキミの激情というキミにとっての「間違い」には、むしろお礼を言ってもいいくらいだと思ってるんだ。「絶望の前に殺してくれてありがとう」ってね。

――そうして此処に死んでいくボクが、キミにただひとつ願えることがあるとするのなら。そうだなぁ、今日この日のボクにとっての「幸運」が、キミにとっての決定的な「不運」にならなければいいとは思わなくもないかな。キミはもっと絶望を踏み越えた希望としての自分を誇って、ボクに幸福をくれた尊い人として、どうかその輝きに胸を張って、未来の絶望を滅ぼしてくれるといい。

そうしていつか、この世界が希望に満ちたその時には――ほんの一瞬だけでもいいんだ、ボクのことを思い出してくれると嬉しいな。この日キミに真実を伝えることで、希望を繋いだボクの姿を。希望を愛して希望に死んだ、とても幸運なボクの最期を。


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