越前先輩の姿は、コートから少し外れた人気の無い場所にあった。それほど真剣に探し回ったわけではないから、状況的にはたまたま出くわしたと言った方が正しいだろう。越前先輩は僕のほうを見るなり「あ……昨日の」とだけ言って、それほど興味無げに手元のPONTAを飲み続けている。

「えーと……こんにちは」
「何か用?」
「あ、……と、用ってわけではないんですけど。歩き回ってたらたまたま先輩の姿を見かけたので、つい……。コートの方へは戻らないんですか?」
「俺、今日の試合は午後の最後だから。まだ出番無いんだよね」

ぐい、と最後の一口を飲み干して、越前先輩は空になった空き缶を携えたままでこちらを見やる。空き缶ひとつがサマになる中学生なんて、やっぱりなかなか居るもんじゃないよな。そんな余計な感想を抱いてから、我に返って僕は照れ隠しついでに質問を続ける。

「え、と……対戦はどなたとなんですか?」
「それ」
「え?」
「アンタの持ってる紙。……見れば分かるんじゃない?」

空き缶を宙に放り投げては取り直し、を繰り返しながら、越前先輩は僕の手元を指差してそう言った。不意を突かれて慌てて自分が掴んだままのそれを確認すれば、なるほど、今日一日の対戦表だ。たしかに、すでに分かっていることをわざわざ聞く奴ほど煩わしいものもないだろう。

紙面をぱらりとめくってまじまじと見やれば、やや行って越前先輩の名前に行き当たる。並ぶ名前を目にして、ふと昨日のワンシーンに思い至った。――あれ、この人って。

「遠山先輩?」
「そういうこと。……ま、今日は俺が勝つんだけどね」

ぎらついた瞳で越前先輩は一言言って、勝負を楽しんでいる時のあの表情を浮かべてみせた。「今日は」ということは、遠山先輩と越前先輩は過去にも何度か試合をしているということだろうか。昨日のやり取りを見る限り、嫌がっていたとはいえ一応越前先輩の知り合いではあるみたいだし、僕の知らない因縁なんかがあったりするのかもしれない。

それにしても、大阪の人ってみんなああなんだろうか。財前先輩はそれほどでもないけれど、全体的に何となく馴れ馴れしい――いや、さすがにこの言い方は失礼か。そう、ノリが近くに踏み込みすぎているというか。この間金色先輩と一氏先輩がコントを装って僕に話しかけて来た時なんかは、正直どういうリアクションを取っていいものか随分悩んだ。

「頑張ってくださいね、試合」
「……どうも」
「……あれ」

風が吹き抜けてからふと、越前先輩の帽子にはらりと木の葉がかかったことに気付く。ついまじまじと見やれば、先輩は訝しげな顔をして「何?」と小首を傾げた。――その表情が案外とあどけないので、図らずも不意を突かれてしまったのは、まあ、この際置いておくとしても。

「先輩、帽子に葉っぱ付いてますよ」

ひとまず声を掛けて、少しだけ距離を詰める。今日一番の勇気を出すなら間違いなくここだろう。口実なんて何でもいいから、とりあえず近付きたい。あわよくば触れられたら、それが距離を縮めるきっかけになるかもしれないんだし――。

そうして、手を伸ばしかけた刹那のことだった。

「……本当だ。ども」

僕の腕が伸びることを察知したのか、越前先輩は掛けていた木から立ち上がって、頭上に引っ掛かった木の葉を払って軽快なふうに半歩下がる。見せ掛けはあからさまに拒絶されたわけではないけれど、実際はあからさまに拒絶されている、そんな感覚。

警戒心が強い、ってこういうことを言うのだろうかと、妙に納得させられてしまうような。たぶん僕に対してだけではなく、程度の差はあれ、誰に対しても根底はこんな感じなのだろう。ああ、本気で追い掛けようと思うなら、これはかなり遠い道のりになるかもなぁ。そんなことを漠然と予感させられて、ますますの自覚に戸惑いと少しの高揚が入り混じる。

――けど、誰にでもそうなら、僕にでも近づけるチャンスはあるのかも、しれない。そうして僅かな希望を見出していることもまた、事実だった。

「それよりいいの。戻んなくて」

淡々と思考を巡らせていると、ふいに越前先輩の声が割り込んで来る。

「へ?」
「……休憩。終わるんじゃないの」

視線だけで時計を示されてそちらを振り向けば、午前後半の練習開始はいつの間にやら3分前に迫っている。焦って大声を上げそうだったけれど、先輩の前だったと思い直して、それだけは何とか思い留まった。

「あ、本当だ……!もう戻らないと。……失礼しました、先輩!」

ああもう、余裕が無くなるとすぐ時間を忘れてしまうから。はあ、と溜め息を吐いて、僕はコートに戻る前にと越前先輩を振り返る。先輩は特にこちらを見ることもなく、もともと寄り掛かっていた木に座り直して、相変わらず空き缶をくるくると回していた。



***



あれから午前、午後と無難に練習を終え、残すは各コートの最終試合。今日一日に限れば試合の無い時間帯の過ごし方は選手に任せられていて、練習することも出来るし、好きな試合を見学することも出来る。

越前先輩に今日の試合のことを聞いてからというもの、僕は絶対にこの試合を見ようと思っていたのだけれど。何だか、想像していた以上にギャラリーが多い、ような。

「なんや、さすがに気合い入っとるなぁ、金ちゃんは。ま、久々の公式試合じゃ仕方あらへんか」

傍に位置取っていた人の良さそうな高校生の先輩がそんなことを呟くのを聞きながら、今ひとつ言葉の意味を理解できずにぼんやりとコートを眺めてみる。シングルスのコートに立つ二人は、気迫満点だけれどいがみ合っているというふうもなく、むしろ試合の瞬間を迎えることを楽しんでいるような印象を抱かせる。

もしかして、結構いい試合になったりするのだろうか。いくら四天宝寺の部長と言えど、アメリカに渡って活躍している越前先輩を相手にしたなら、良い勝負になる選手は限られていると思うのだけれど。

「で、いい加減負ける覚悟できた?」
「つらっと何抜かしとんねん。負けるんはコシマエの方やろ?」
「今日俺、調子良いんだよね。負ける気がしないって言うかさ」
「残念やったな。ワイも同じや。めっためたにやられて泣いても知らんで?」

コートを挟んでの激論にも、二人は変わらず強気に笑う。

越前先輩の煽り文句に対等な返しが出来るあたり、あの遠山先輩という人はなかなかにすごい。大抵は怒り出すか、実力を感じ取って戦意を失ってしまうかのどちらかなのに。何と言うか、お互い、そのどちらでもなさそうな感じが滲み出ている、というか。

「んじゃ、行くよ、っと!」

審判のコールに合わせてトスされたボールが高々と宙を舞う。先手は越前先輩。右腕で振りぬかれた球は独特の弾道を描き、遠山先輩のコートへ叩きつけられる。

「何をいきなりツイストサーブ放ってんのや。容赦あらへんなぁ、コシマエ君は」
「……っちゅーか、遊んでんのやろ、アレは」

遠山にツイストサーブが効かない、なんちゅーのはアイツが一番分かっとるに決まってんのやからなぁ。傍で話される関西弁にちらりと視線をやれば、忍足さんと謙也さんの姿があった。そういえば、この二人は従兄弟なのだっけ。

忍足侑士先輩のことは一部の人を除いて皆が「忍足」と呼んでいるけれど、忍足謙也先輩の方は、近しい仲間でなくても大体が「謙也」と呼ぶのだと前に誰かに教えられた気がする。後輩もみな「謙也さん」と呼ぶから、間違えることはまず有り得ないだろうと。そう言われれば、他人をあまり下の名前で呼ばない先輩たちでさえ、謙也先輩のことはみなそうして呼んでいたっけ。

「せやけどあれは遊んでるっちゅーか、なんちゅーか……」

ホンマ、毎度毎度呆れてまうわ。がっくりと肩を落とした謙也先輩に、「アンタが呆れてどうするんっすか」と財前先輩の鋭いツッコミが入れられる。

「……遊ぶにしたって、あいつらはマジになって遊んでるから笑えねぇんだよ」

そこに、傍から別種の声が飛んでくる。ったく、ナントカ大車輪だの無我の境地だの、毎回ド派手にやりやがって。いったい何回巻き込まれたか分かりゃしねぇ。ぶつくさと咎めるような調子ではあるけれど、この人の場合、おそらく本気で怒っているというわけではないのだろう。

「まあまあ。俺たちだって似たようなものじゃないですか、宍戸さん?」
「長太郎……まあ、それはそうだけどよ……」

本来はああいう瞬間が一番楽しいんでしょうし、テニスって。ほのぼのと笑う鳳先輩までもがそんなことを言い出して、うなだれ混じりに肯定する宍戸先輩だったけれど、それでも両者試合から視線は逸らさない。

出だしから未だ激しく打ち合うコート内の二人はペース配分なんて少しも考えていないような軽快な動きを見せて、お互いの手の内を隠すことなく曝け出している。どちらにも言えることなのだけれど、とりわけ――そう、越前先輩があまりにも楽しそうに試合をするものだから、つい僕も二人の動向に釘付けになってしまう。

試合の時はいつだって普段よりも楽しそうな表情をする越前先輩だけれど、今日はそのどんな瞬間とも少し違っているような気がする。具体的に何が、とは言えなくても、何となく感じ取れる類の、些細なようで大きな違いがそこにはあった。

「ねえ、偉そうなこと言ってた割には返せない球が来ないんだけど?」
「コシマエかて調子良いんやなかったんか?球軽いっちゅーねん!」
「しょうがないじゃん。俺、アンタみたいに力押しで何とかするタイプじゃないんだから、さ!」

越前先輩の口上に合わせて、バシン、とコートに球が叩き付けられる音が響く。審判が得点のコールを上げれば、たった一ゲームのやり取りに、ギャラリーが異様に沸き立つ。――すごい、の一言。

「……やるやんか」
「そろそろウォーミングアップは終わりでいいんじゃない?」

今までにも何度か映像で、テニスを始めてからはこの目で、実際に「良い試合」と呼ばれる試合を見てきたけれど、この試合はそのどれよりも上を行っているような気がした。

たぶん、僕自身が観戦経験に乏しいこともあるのだろうし、越前先輩に特別思い入れがあるのも原因のひとつなのだろう。それでも、この試合の心躍る感覚はなかなか味わえるものではないのだと、それだけははっきり言える。

――それから、しばらく。相変わらず目の前で繰り広げられる激戦は、そのまま平行線をたどってタイブレークへ。普通ならば誰もが固唾を呑んで見守る展開なのだけれど、この二人に限っては、緊張感よりも試合の行く末を見守る楽しさの方が勝っている。どちらか一方の「仲間」としての自分ではなくて、いわゆるただひとりの「観客」になってしまっている、とでも言えば分かりやすいだろうか。

「最後の一球、ね。……これで白黒はっきり付けられるんじゃない?」
「望むところや!打ってきいや、コシマエ!」

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