「……で、結局相打ちになると」

どうせこんなことやろ思っとったわ。呆れたように謙也さんが言ったその少し後ろに続いて、僕は宿舎に向かう道を進んでいた。

越前先輩と遠山先輩の試合は、結局最後の一ポイントを争ったところで二人とも糸が切れたように動けなくなってしまってノーゲーム扱いになってしまったのだった。それでも十分に面白い試合だったのだけれど、本当はどちらが強いのかを知りたい気持ちも少しはあったから、残念でないと言えば嘘になる。

「で、肝心の金ちゃんはどこ行ったんや?」
「ちっと前から居らんとよ。ばってん、たぶん……」
「そうやっていちいちツッコむんを野暮っちゅーんですわ。いい加減飽きないんすか、謙也さん」

遠山の行く場所なんて決まっとるやないすか。財前先輩がそうぴしゃりと言い放てば、「金ちゃんはいつもだけんねぇ、変わっとらんばい」とのんびりとしたふうの千歳先輩の声。

この先輩たちの会話から察するに、どうやら遠山先輩が人の輪を外れるのはそう珍しいことではないらしい。――ただ、失踪にかけては目の前を歩く千歳先輩も相当だと聞いたことがあるのだが。今日に限っては当人が朝から姿を見せたままなので、こちらの噂の真相は未だによく分かっていないというのが現状だ。

「……あ」

そこで唐突に、重大な事実を思い出す。もしかしなくても、コートの外れの休憩所に記録用のノートを忘れてきてしまったんじゃないだろうか。

――いや、名誉のために断っておくけれど、別に「ノート」と言っても乾先輩の持っているようなデータテニスのためのノートではなくて。今日どんな練習をしたとか、調子はどうだったとか、そういった簡単なことをメモ程度に残した冊子に過ぎないのだけれど。

「戻らなきゃな……」

この合宿、練習自体は厳しいけれど、練習さえ終わってしまえば宿舎の門限は案外と厳しくはない。夕方は六時までに入れば十分夕食を摂ることが出来るし、今はせいぜい五時といったところだから、今から引き返して宿舎に帰ったとしてもまだまだ余裕があるだろう。

ここは随分広い土地だから、一度宿舎の近くまで戻ってきてしまうと練習場にもう一度行くのにはそこそこに骨が折れる。まあ、だからって放っておくわけにもいかないしな。自分にそう言い聞かせて、僕は宿舎に帰還する人波を潜り抜けた。



***



目的の休憩所の傍まで戻ると、そこには思わぬ先客が居た。正確には休憩所ではなくて、昼間に僕が越前先輩と会ったあの場所に、またも同じ影があったのだ。とは言え今回は一人ではなく、その数は二人。慌てて傍の茂みに息を潜めて、僕は二人の姿を覗き見る。良心はこれでもかと言うほど咎めているのだけれど、残念なことに、理性が上手くブレーキを掛けてくれない。

越前先輩の隣に座り込む、あれは――遠山先輩、だ。

「結局今日も決着付かんかったやん。何で野試合やったら勝負付くっちゅーのに、練習試合やるとああなってまうんやろな?」
「俺に聞かれても……。ま、いいじゃん。命拾いしたってことで」
「何や言うてんねん。命拾いしたんはコシマエの方やろ?自分、昨日かてワイに負けとるやん」

26勝25敗でリードしてるんはワイの方やで。勝ち誇ったように遠山先輩が言えば、越前先輩はむすりとした表情で「あれはノーカンでしょ」と溜め息を吐く。

「雨で途中になったらいくらリードしててもノーゲーム。テニスの常識だよね」
「……前にルール無視してリードしとるほうが勝ちや、言い張ったの誰やねん」

ま、ワイは試合さえできればそれでええんやけどな。はあ、と同じく溜め息を吐いた遠山先輩は、越前先輩を横目に見やってちょっと笑った。

なんというか、昨日の朝方出会った二人にはもう少し険悪なイメージを持っていたのだけれど、このやり取りを見るとそんなことも無いみたいだ。試合の時にも先輩たちが「いつものことだ」と口を揃えて言っていた以上、二人はおそらく良いライバルといった間柄なのだろう。

それにしても、越前先輩がライバル視するだなんて、遠山先輩は本当にすごいと思う。越前先輩ほどの中学生って、やっぱりその辺を探してもそうそう居ないのだろうから。

「で、いつまで居る気なの。いい加減鬱陶しいんだけど」
「まあそう言わんといてや。ええやん、ちょっとくらい」
「……全然ちょっとじゃないじゃん」

大体俺、部屋に帰ってもアンタと一緒でうんざりしてるとこなんだけど。遠山先輩と視線を合わせないようにして越前先輩が言えば、「せやけど、二人でのんびり出来そうなんも今しかあらへんしなぁ」とにこにこ笑う。

「――っ」
「ん、なしたん?」
「……アンタ、昔より狡猾」
「狡猾って何やねん、狡猾って。どうせ褒めてくれはるんなら賢くなった、言うてや」
「別に褒めてないし」

そうして呆れたように視線を逸らす越前先輩は、なんだか思いっきりペースを乱されているように見えて、僕は初めて見るその表情にひどく戸惑う。相変わらずのつっけんどんな対応ではあるけれど、それでもあんな顔を見せることもあるんだな、と思うと、貴重な瞬間を垣間見られた嬉しさに心が逸る。

ただ同時に、それをもたらすのが自分でないことに落胆する気持ちも否めない。たとえ困らせているだけなのだとしても、あれだけ越前先輩を動かせる存在には、今の僕では到底なれないだろうから。

――それにしても、そろそろ何食わぬ顔で出て行くべきだろうか。僕の本来の目的はノートの回収なのだから、いつまでもこうしているのはあまりにも。大体にして僕が出て行ったところでさして問題のある場面だとは思えないし、出て行きにくいのは僕の自意識過剰でしかないではないか。

と、思いつつ、足が動かないこの意志薄弱さがとことん空しい。なんて、思っていたら。

「なあ、コシマエ」
「何?」
「そういや先から言おう思てんけど、そこんとこに誰かおるで?」

突然遠山先輩が僕のほうを指差して、そんなことを軽快な調子で言った。「は?」と疑問符を返した越前先輩に「せやから、あそこやって」と答える遠山先輩には、特に怒っている様子も見受けられない。

そこに居る誰かって――ああうん、それって僕のことだけど。――じゃなくて。え、いや、今何て言った。もしかして僕のことだろうか、もしかしなくても。

「おーい、どちらさんかわからんけど、怒らんから出て来いやー」

――ああ、やっぱり僕のことを指してる。確定してしまった事実に一瞬で絶望的な気分に陥って、このまま逃げ出してしまおうかとさえ考える。だけど、覗き見した上に逃げるなんて完全にただの不審者だよな。

ええい、ここはもう諦めて姿を現した方が良いだろう。半ば投げやりに決意して腰を上げれば、「あ」と越前先輩の言葉が重なる。

「えっと……朝以来、です……」

わけの分からない挨拶を繰り出せば、「……またアンタなの」と少しうんざりしたような語調で返された。こういう人だと分かっているけれど、それでも若干のショックは受ける。ああ、やっぱりあまり良い印象は持たれていないのかなぁ。

「ん、何やコシマエ、知り合いなんか?」
「……青学の一年」

だったっけ、たぶん。そう付け加えた越前先輩に、「たぶんて何やねん。後輩くらい覚えとき」と遠山先輩のツッコミが入る。「だって俺、一年中部活に居るわけじゃないし……」と悪びれない様子の先輩は、いつもの空気を纏って変わりない。

「で、どないしたん?みんなもう随分前に帰った思てんけど」
「す、すみません!その、休憩所に忘れたノート、取りに来ただけなんですけどっ!で、出て行きにくくなっちゃって……」
「はー、なるほどなぁ。それで来るときあないな急いどったんか?……せやけど、別にワイ、後輩やからって自分のことシメたろ思ったりせえへんで?」

「先輩やからってそない怖がらんでもええのに……」。どうやら遠山先輩は僕の言葉を異なる意味にとらえてしまったらしく、少ししゅんとしながら「なあコシマエ、ワイってそんなに怖いふうに見えるん……?」と頼りなげな声を出す。

「別に。会ったらメンドいからでしょ、アンタの場合」

自覚無いとか、本当呆れるよね。淡々とそう突き付けて、越前先輩ははぁ、とわざとらしげに溜め息を吐く。それに鋭く反応して、遠山先輩はどこか不満げな表情で「……メンドいって何やねん」と一言返した。

「そのままの意味だけど?お気楽バカだけじゃないんだよね、世の中」
「ちょい待てやコシマエ、それワイのこと言うてるん?」
「アンタと話してるんだから、アンタ以外居ないと思うけど」
「なんや聞き捨てならんなぁ。気に入らんなら今から勝負しよか?」
「別にいいよ。望むところ――」
「――あ、あのー……」

このままでは真剣に試合が始まりかねない。いい加減雲行きが怪しくなってきたところで僕が無粋ながらも口を挟めば、二人は同時にきょとんとした表情でこちらを振り向いた。

「……せや。自分のことすっかり忘れとった」

そう言って直後、遠山先輩が「許してや?」とにっこり笑う。いやいやもう、そんなふうに愛くるしく微笑まれてしまっては、許さないだなんて言えやしない。

そういえばこの間、「四天宝寺の現部長言うたら大概滅茶苦茶な奴やからなぁ」と忍足さんが言っていた気がするが、その時たしか千石さんが横からこんなことも言っていた。「でも、なーんか憎めないんだよねぇ」と。

――今なら、その意味がとてもよく分かるような気がする。

「さて、ほんならワイらもそろそろ帰ろか。なぁコシマエ、ワイ腹減ってしもてん。……帰ろ?」
「……帰ろうも何も、もともとアンタが引き止めたんじゃん」
「そうやったっけ?まあええやん。早うせんと寮母さん晩ご飯下げてまうやろ」
「いい加減自分の発言には責任持ってくんない。……ま、いいけど」

ぽつり、ぽつりと挟まれる越前先輩の言葉は、呆れによる諦め混じりながらも怒りは含まれていないようだった。ライバルとしてだけではなくて、友達としても思ったよりも打ち解けているのかなぁ。そんな印象を抱かせるようなやり取りに、ほんの少し後ろ暗い感情が湧き上がる。

そうして各々のラケットを引き寄せ、手早く帰り支度を済ませた二人は背を預けていた木から立ち上がる。あれ、並んでみると遠山先輩のほうが少し背が高いみたいだ。そんなことを思っていると、遠山先輩が何かに気がついたふうに越前先輩のほうを見やった。

「なんやコシマエ、頭に葉っぱ付いとるでぇ?」

え、と僕も越前先輩に視線を移せば、昼間と同じように先輩の帽子に木の葉がはらり。自分で見えずにいるせいか、もどかしそうにしている先輩は失礼ながら少し、可愛らしい。

「コシマエ、なーに変な動きしてんねん!もうちょい上やって、上」
「は?……ちょっと、どこ」

くすくすと笑う遠山先輩は、よほどツボに入ったのか笑いすぎて涙が出そうになっている。けれどひとしきり笑ったあと取った遠山先輩の行動に、僕はつい固唾を呑んでしまうのだった。

「せやから……あー!もうええわ。……ええからちょっと動かんといてな?」

呆れによるものではない息を吐いたあと、ほんの少しだけ微笑んで、遠山先輩は越前先輩の帽子へ手を伸ばす。既視感にはっとなって動きを止めれば、思い起こされたのは昼間のやり取り。――そう、他人がいくら越前先輩に触れようとしても――。

「……ほら、取れたで」

(あ、れ……?)

僕の予想に反して遠山先輩の手が振り払われることは無く、それどころか、越前先輩は珍しいほど従順に遠山先輩に触れられることを許してしまう。今ひとつ納得がいかないといった表情はしているけれど、それでも嫌がっているような雰囲気はこれと言って感じられない。

――ああ、何だかちょっと、遠い、気がしてしまう。

「せやかて自分、何ムキになってんねん。見えへんなら帽子ごと取ってまえば良かったやん」
「……じゃあ笑ってないで最初からそう言えば」
「やって、めっちゃオモロかったんやもん、わざわざ止めたないわ。……そんくらい自分で気付き?」

ワイのせいにしたってあかんで。不服そうな越前先輩に掛けた一言は、どこか大人びて有無を言わせない感覚がある。――無邪気なのか、しっかりしているのか。なんだかどちらも併せ持っていて、ふとした時にはっとさせられる。――ちょっと不思議な人、だ。

それからつかの間。越前先輩はそのまま黙って向かい合う遠山先輩を見たあとで、「……ねぇ」と迷惑そうに呟いた。

「……なんか、見下ろされてんのってすっごいムカつくんだけど」
「しゃーないやん、ワイの方がデカいんやもん」
「……5cmくらいで偉そうにすんのやめてくんない」
「来年なったら10cmになってるかもしれへんで?」
「俺がアンタより5cm伸びればいいだけの話だよね、それって」

続けざまに目の前で繰り広げられる光景を見て、ああ、なんだか本当に忙しい人たちなんだな、としみじみ思う。仲が良いのか悪いのか、一見分からないようにも思えるけれど、やっぱり仲は良いのだろう。そもそも、踏み込めない。二人が言い合いを始めれば、それだけで僕は蚊帳の外。――視界に入るのは、なかなかの至難。

「おっと、ええ加減戻らんと間に合わなくなるで、コシマエ。そんじゃ、ワイらは帰るわ。一年生君も早く戻らんと晩ご飯無くなってまうで!」
「あ、え、えっと……?」

そうして争っていたかと思えば、瞬く間に遠山先輩は先を走って行ってしまう。僕が呆気に取られていると、横から「はぁ……」と諦めたような越前先輩の声。

「あの、遠山先輩っていつもあんな感じなんですか?」
「遠山?……見ての通りなんじゃない」

こっちの身にもなってほしいよね、本当。言いつつラケットが入った鞄を担ぎ直して、越前先輩は焦るでもなく宿舎のほうへと歩み出す。それから一度振り返って、「ああ」と思い出したかのようにこう言った。

「ノートだったら向こうにあったけど、あれアンタのだったんだ。……近くの簡易ロッカーにしまっといたから、まぁのんびり取りに行けば」

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