「……何て説明すればいいのかな。ボクはね、狛枝クン。希望のために生きているわけでも、生きるために希望を追い求めているわけでもないんだよ」

そんな狛枝の怒涛の言葉に慄くこともなく、苗木は冷静なまでに狛枝の怒りを受け止めていた。
――彼が「希望」を踏みにじられたことでひどく取り乱してしまうのは、たぶん、その相手がボクだからなんだろう。他の誰でもない、「超高校級の幸運」の名を持った彼と同じ位置に居るこのボクが、彼と同じ位置には在ろうとしないから。その切ないほどの感情の名前を、たぶんボクは渡してあげることが出来るけど。それを伝えてしまう権利は、今のボクには無いんだろうと思う。
それならこのまま彼を押し切ることで、何とか折り合いを付けてもらうしかないのかもしれない。ボクにとって譲れないものを彼に伝えて、ボクにとっての正しさを振りかざしてしまったら、その時きっと、彼を壊してしまうけど。
ただそれは、ボクが全てを見つめていながら、彼を救えなかったことへの自己満足みたいな行為でもあるから。純粋に「彼のため」だけを謳えないところは、ボク自身の弱さでもあるんだ。少なくとも。

「だから希望を踏みにじっても許されるって?……傲慢だよ、キミの考え方はね」
「……そうじゃないよ。許されるとか、許されないとか、きっとそういうことじゃない。ボクが囚われるものはね、狛枝クン。希望や絶望なんていう、ボクらが決して触れられないようなものなんかじゃないんだ」
「……触れられない?「超高校級の希望」とまで言われたキミが、江ノ島盾子の前で希望を語ったキミが、希望は掴めるものなんかじゃないって言うの?……はは、それこそくだらない演説だよ、苗木クン!ねえ、それならキミの言う「希望」って何?キミが戦う「絶望」は何だって言うの?目に見えないもののためにキミはそうして戦って、凡人のくせに何もかもを持っているようなフリをするんだ?」
「……そうだね。先に断っておくとしたら、ボクは何もかもなんて持っていないよ。……キミの言う通り、ボクは人よりちょっと前向きなだけの凡人なんだ。ボクだけの力で何もかもを変えていくことなんて出来ないし、たぶん、そうしようと思ったことも一度もない、と思う」

ボクはね、「希望」そのものを追っているわけではないんだ。苗木が言えば、狛枝はなおも声を荒げる。

「それなら尚更だよね。キミが欲しいと思うものにキミの力が及ばないなら、わざわざキミが生きようとする理由が無いじゃない。所詮凡人程度がおこがましく足掻いたって、どうにもならないって分からない?」
「……それはもちろん、そう思わない日が無いわけじゃないよ。どうしようもないくらいに無力で、もうどうにもならないんじゃないかって、そう思う日だってある。……けどさ、それでも立ち止まるわけには行かないんだよ。ボクが背負ってしまったものがボクの中にある以上、ボクが諦めるわけにはいかないんだ」
「……背負う?」
「うん。……ボクが生きることを諦めて誰かに全てを託すことはね、他でもないボク自身に全てを預けてくれた、ボクの大切な人たちの想いを踏みにじることになるんだよ。それが出来ないから、ボクはボクとしてここに生き続けるんだ。彼らの願いが、あの一瞬だけで途切れてしまわないように。……そうして前に進んで行こうとすることが、たまたま希望に満ちた未来を求めることに繋がっているっていうだけのことでさ」

――ただ単に、触れられないものを漠然と追いかけているわけじゃない。ボクはボクが背負った大切なものたちのために、真っ直ぐ走り続けているだけなんだ。
留まることを知らず語られる理論に、狛枝はわなわなと肩を震わせ、殺意に満ちた視線で苗木を射抜く。

「……キミは、本当に……」

――ねえ、その言葉自体が傲慢だって、キミはどうして気が付かないの。その場所に立ち続けることを許されるのが当然だと思っているそのことこそが、キミがエゴに塗れていることの証明なのに。凡人のくせに、キミがそこに立っているのは「偶然」にしか過ぎないくせに、キミは光の犠牲になることなんて考えもしない。光を自分で求めることが、託された言葉を抱え続けるそのことが、誰かのためになるって本気で信じてる。ボクはね、苗木クン。そのお気楽さが疎ましくってたまらないんだ。そこに立つことを疑わないキミが。劣っていることを自覚しないキミが。誰よりも、キミ自身が。

「――っ!」

募る激情が振り切れるように、狛枝は開いた距離の外側から一歩を踏み込んで、苗木の身体を片手で組み伏せる。ああ、許せない。許せない。まやかしの希望を何の疑問も無く振り撒くその態度も、走り出したら振り返ることをしない愚直さも。所詮はボクと同じはずなのに、その明るさも、その尊さも、全部、全部――。

――全部、どうだって言うんだろう。

「狛枝く――」
「喋らないでよ。……キミの声を聞くとイライラするんだ。キミなりの希望だかなんだか知らないけど、ボクにしてみればキミの言葉なんてまやかしだよ。キミの言葉は所詮、「希望」を都合の良いように捻じ曲げているだけの詭弁に過ぎないんだ。……それも、キミなんかが生きるためにさ!」

ねえ、どうしてキミはそれを愚かなことだって思えないの。無表情なまでの低音で問い掛ける狛枝に、苗木は抵抗することもなく組み伏せられたまま、強い瞳を真っ直ぐ向ける。

「それはね、たぶん……ボクがどうしようもなく生きることを望んでいて、そんなボク自身が、ボクが生きていくことを愚かだとは思わないからだよ」
「は……?」
「ボクはね、狛枝クン。世界に希望を広めたいから生きているってわけじゃないんだ。ただボクがこの世界で生きていたいと思うから、どうにか前に進んでいこうとするんだよ。そう考えれば、たしかに誰かの言葉を背負おうとするのもボクの勝手な行動に過ぎないんだろうし……キミの言うとおり、ボクはとても傲慢なのかもしれないよ」

でもね、と言って、苗木は続ける。

「だからこそ、ボクは世界にとってより良い「希望」のために死にたいだなんて思えないんだ。こんなボクの想いなんて、世界にとっては頼りないものなのかもしれないけど……。それでもボクはボクが生きている世界の中で、この想いが少しでも良い方向に届いて行くって信じたい。……自分の存在を犠牲にしてまで、祈りたい希望はボクには無いから」

なんて、こんな言い方をすると、ちょっと薄情なのかもしれないけどね。申し訳なさそうに目を細めて、苗木は悲しそうに少し微笑む。

――たぶん、だけど。ずっと考えていたことだから、キミがボクやキミの死にこだわり続ける理由は分かるんだ。時には何もかもを疑いながら走り続けて、それでも最後には信じられるものばかりがこの手に残ったボクとは違って、キミにとっての「幸運」は、いつも自分や他人の絶望の後にばかり舞い込んでくるものだったから。ひとつは、キミがキミ自身を愛せなくなったそのせいで。もうひとつは、 キミがボクを自分と同じ存在だと見なしているそのせいで。キミはキミ自身を「誰かのために」殺してしまいたいと願って、ボクに対して、キミと同じ敬虔さを求めているんだろう。

「あのさ、狛枝クン。……キミは、キミ自身を好きでいるために希望のために死にたいって、……そう思ってるんじゃないのかな」

――というよりもたぶん、キミはキミを好きであり続けるためだけに自分に犠牲の鎖を掛けて、「希望」のために傷つくことで、絶えず自分を許そうとしているんだろう。自分を守り続けるために自分を傷つけ続けることが、きっと「キミ」という人の在り方。だから歪みきっているのも本当。純粋すぎることも本当。何もかもがキミにとっての「本当」で、きっとそれと同じくらいに、何もかもがキミにとっての「嘘」なんだ。

止めのように苗木が言えば、狛枝はつかの間ぐらついたように瞳を揺らして、すぐにそれを怒りで上塗りしてしまう。「……何のつもり?キミなんかにボクのことを語られる覚えは無いよ」と。過剰にまくし立てる狛枝はどことなく空虚に侵されかけて、危うさがちらついてにべもない。

「……ごめん。なんだか放っておけないんだ、キミを見てると。何となくなんだけど、自分を思い出すって言うか……」

自分とは少しも似ていないはずなのに、なぜだか自分に重なって見えてしまう。そんな意味合いのことを苗木が言えば、狛枝は怒りとも、悲鳴とも付かない衝動がついにはち切れそうになるのを悟る。
当たり前のように光の側に立ちながら、罪悪感ひとつ覚えずに、ただひたすらに未来を信じ、自分を信じ、弱さも全て受け入れる。他人を案じ、自分の危険など少しも考えず、そのくせ少しも死ぬ気が無い。
ああ、分かった。純粋なまでのその瞳が、ボクを案じるその声が、憎らしくて、疎ましくて、消し去りたくて――。ただただ遠ざけてしまいたくてたまらないのは、彼の中のどれもこれもが、全部――。

――ボクの中には無いものだから、か。

そう理解してしまった直後、狛枝の瞳は闇と光に大きく揺れる。殺してやりたい、潰してやりたい、と心が叫ぶ。これ以上何も聴かずに済むように。

ああ、だめだ。――これでは、もう、壊れてしまう。

本能的にそう悟ったのだろう。動揺も、後悔も、羨望も、止め処ない怒りも。渦巻く全ての激情を込めて、馬乗りになったまま、狛枝は組み伏せている苗木の首元に手を掛けた。

――そうして、一瞬。狛枝は苗木の首筋を絞め上げようとして、拭い去れない違和感に気付く。

「……っ、……、れ……?」

懸命に首元を押さえつけながら、止めを刺しきれない自分に戸惑って、狛枝は咄嗟に苗木の瞳を見やってしまう。少し苦しそうにはしているけれど、その色はどこか寂しさにも少し似て、死を恐れる類のものでは決して無かった。

「……力、入らないでしょ……?きっと、殺せないと、思うから……。……ごめんね。そんな顔をしないで……」

どうするべきかを決めかねて、固まってしまったままの狛枝に、困ったようにそっと苗木は告げる。それから首筋にかけられた狛枝の右の手のひらを、ひどく優しく振りほどいた。
おそらく苗木なりの気遣いなのだろう。あえて「殺し切れなかったのは左腕が無かったせいだ」とは言及せずに。まだ少しの圧迫感に苦しさを覚えたままで、呼吸を整えようと吐息した。

――それから僅かな間。何も答えようとしない狛枝を馬乗りになられたままで苗木が見上げれば、ふいに、ぽたり、と。室温で冷え切ってしまった頬に、あたたかな一滴が落ちる。

「え……?」

驚きに我を忘れかけた自分をどうにか諌めて、苗木は事の次第を整理する。遅れて理解した状況に、やり切れなくなって一度だけぎゅっと目を閉じた。
ぼんやりと淡く綺麗な色をして、砕けてしまったような感情の薄い狛枝の瞳には、止め処なく、止め処なく、ただ静かに涙が伝い落ちていた。時折それが滴っては、苗木の目元をぽたり、ぽたりと濡らしてしまう。まるで一緒に泣いて欲しいとでも訴えているかのように。独りで泣きたくはないと強がるように。
――たぶん、最後に頼った激情さえも折り曲げられて、虚無感に満たされてしまっているのだろう。何もかもを失ってしまったかのような絶対的な空白感。目の前に広がるその虚無が、どちらに進めば良いのかをひたすらに覆い隠してしまうから。今は子供のように泣き喚いてしまうことも出来ず、怒りに再び狂うことさえ出来ず、静かに、ただ静かに、溢れる涙を零し続けることしか出来ずにいる。

「……ごめんね。まだ、死ぬわけには行かないんだよ。……それに、キミにももう、誰も殺させたくないって思うから……」

声も無く泣き続ける狛枝へ、懺悔するかのように苗木は言って、罪悪感に強く囚われる。
――ボクと同じ存在だからこそ、ボクに対してだけ、彼はこうしてこんなにも脆い。どこにも壁を作ることが出来ない状況で、何ひとつ受け入れてあげることもせずに、ひたすらに、彼を壊す言葉ばかりを並べ立てて。こうなることを分かっていながら真実を突きつけることを選んだのは、他の誰でもない、ボクなんだけれど。――それでも少しだけ、やり切れない感覚に後悔が募る。

「……そのままで、聞いていてくれるかな。ボクにはひとつ、キミに謝らなきゃいけないことがあるんだ。……ボクはね、本当は知っていたんだよ。キミをプログラムに参加させれば、あんな結果になってしまうかもしれないってこと」

そうして苗木は力が抜けてもたれ掛かる狛枝を抱きとめるように、彼の背中に腕を回して、抱えた事実の吐露を始める。どうしようもないまま選んだ方法は、彼にとってだけ、決して選んではいけない方法だったのに。

「キミの絶望だけはみんなとは違うものだって、本当はちゃんと気付いてたんだ。……キミの絶望はたぶん、江ノ島盾子に植え付けられただけのものじゃないんだろうと思うから。たとえキミをあのプログラムに参加させたところで、その場凌ぎにしかならないことも……ううん。それどころか、もっと別の絶望を生んでしまう可能性があることだって分かってた」

もちろん他の被験者たちに関しても、ただ島の記憶を上塗りするだけで片付ける気は無かったけれど、彼らに関しては、ひとまず記憶を与えてやれば絶望が治まるという確信があった。けれど狛枝凪斗に関しては、「とりあえず」の記憶を与えたところで意味が無い。生まれたときから希望と絶望を目まぐるしく繰り返し続けた存在を、ほんの一時の希望の記憶で解決できるはずなど無いからだ。彼を絶望から立ち直らせるには、こうして生身で向き合って言葉を交わし続けるしかないことも、それが一筋縄ではいかないことも、苗木はきちんと分かっていたのだけれど。

「でも、キミだけをこちら側に残すことは出来なかった。……未来機関の目を逃れるには、全員をプログラムに掛けるしか方法が無かったんだ。キミたちを傍に置いたまま、未来機関と渡り合うところまではどうしても手が回らなくて……」

そこまで話したところで、苗木は狛枝が少し落ち着きを取り戻したことに気付く。それでもまだ抵抗できるほどには至っていないのか、回した腕が振り払われることはひとまず無かった。

「……見ていることしかできない自分がどうしようもなくて。……キミが独りで死のうとするのも、この部屋からずっと見てた。こんなことを言ったら、キミは勝手だって怒るかもしれないけどね……」

狛枝が事件を起こした「あの日」、全ての人間の中で苗木だけが唯一「その瞬間」を目にしていた。モニタールームのこの一角で、誰も呼べずにたった独りで。――だって、目を逸らしてはいけない気がした。自分が選んだ過ちで彼が絶望を抱えて死を望む、取り返しの付かない瞬間だけは。

「キミに、憐れまれる覚えなんか無いよ……。あれは、ボクの意志でやったことなんだから……」

そこでようやく虚無を鎮めて、狛枝はぽつりと言葉を放る。絞り出されるようなそれは普段の彼からは想像できないような枯れかけた涙声で、取り戻した精一杯の怒りを宿したまま、苗木の言葉に抵抗をする。

「キミが、起こしたんじゃない。……あれは、ボクが起こした事件なんだから。ボクが、キミの意思に動かされて、死んだような言い方をしないでよ……」

拒絶を込めて狛枝がそう言えば、「……うん。そうかもしれないね、ごめん……」と少し苦しげに苗木は言って、一瞬ののち、狛枝にさらなる問い掛けをする。

「……あのさ。キミは、独りで立っているのが怖い?」
「は……?」
「ボクは、キミのことが嫌いじゃないよ。キミが持つキミらしさの中で、ボクが愛せるところはきっとたくさんあると思う。……もちろん、受け入れられないところもいっぱいあるけど……」
「……いきなり、何……?」
「いきなりじゃないよ。……ずっと考えてきたことなんだ。やっぱりさ、ボクとキミは、たぶん、全然違うところに立っているんだと思う。信じるものも違えば、進んで行きたい方向も違うから。……だからどんなに言葉を重ねても、何度本音をぶつけても、こうして相容れないことだってあるのかもしれない」

ほんの少しのすれ違いで、殺したくなるほど憎らしくもなるかもしれない。寂しげにそう呟いてから、苗木は安堵を誘うかのようにゆるやかに笑う。

「ボクとキミが、違うって……?何を、言い出すかと思えば……」
「……実際、違うんだよ。ボクとキミは全然違う。別にさ、「超高校級の幸運」だからって、何もかもが同じっていうわけじゃないんだ。確かにボクとキミは才能を見ればただの「幸運」でしかないし、ある意味凡人でしかないのも本当だけど……だからって、いつも同じところにしか居られないってわけじゃない」

ボクはボクで、キミはキミなんだ。それだけはどうやっても変えようが無いし、キミがボクにはなれないことと、ボクがキミにはなれないことは、ボクらが「幸運」である前に、もっとどうしようもない事実なんだよ。そう決然とした言葉を放って、苗木は続ける。

「ボクが追いかけるものはキミとは違うから、キミの「希望」は受け入れられないよ。……だけど、それは決してキミを信じていないからというわけじゃない。ただ、キミの言葉を受け入れて、キミと同じ場所に立つことが、ボクにはきっと出来ないだけで」
「……意味が分からないよ、キミの話していることは」
「えっと……つまり、さ。譲れないものが違う、っていうだけの話なんじゃないのかな。何が正しいとか、何が間違ってるっていうことが、ボクとキミの間では、きっとすごく違ってて……。これから先、そのせいでぶつかり合うことも、もしかしたらあるのかもしれないけど。……だけどさ、狛枝クン。これだけはキミに約束するよ。ボクはいつだって、キミのことを信じてる。たとえ何があったとしても、それだけは嘘じゃないって言い切れるから。……だからさ、何かあるなら傷つくことに逃げたりせずに、ちゃんと言葉にしてほしいんだ。もちろん、ボクはキミと真っ直ぐに向き合いたいと思っているだけだから、半端な言葉は、きっと聞いてはあげられないけど……」

それでもたぶん、分かろうとしないよりはずっといい。苗木は思ってから、伝え忘れていた事実に思い至る。

――ああ、そうだった。それから、ちゃんと返しておかなくちゃ。ボクがキミと出会ったあの日、キミに貰った問いへの解答を。たとえキミが覚えていなくてもね、キミが何気なくくれた問いかけは、未来へ向かう理由を失いかけていたボクにとって、とても尊いものだったんだ。

「……ねえ、狛枝クン。ボクにとっての「幸運」はね。たぶん、ボクにとっての全てなんだ。ここに来るまでに、辛いことも、悲しいことも、数え切れないくらいにあったけど……。大切な誰かに出会えたことも、誰かの想いを託されたことも、全部がきっと「未来」に繋がっているんだって。そう信じられることこそが、きっとボクにとっての「幸運」そのものなんだ。……ボクがボクに生まれたこと、なんて言ったら、ちょっと大げさすぎるんだろうけどね」

苗木誠にとっての幸運は、運の良さが何かをもたらしたり、確率勝負に勝ち得たり、そういう類のものでは決してなくて、ただ単純に彼が「希望」や「未来」を信じられることそのものだったのだと。それを苗木自身が理解したからこそ、苗木は頑ななまでに未来を信じ、大切なもののために戦い続けることを決意することができた。
だからこそ、その答えのきっかけを与えてくれた狛枝にもまた、その希望を、苗木誠の「幸運」を、いつか伝えられればいいと思う。そう思ったからこそ、苗木はこうして彼に寄り添い、言葉の雨を降らせ続ける。伝わらなければ何度でも。たとえ何度彼を虚無の淵に立たせてしまって、その度に苗木自身が後悔をして、暴かれていく絶望の深さに自分が絶望させられそうになったとしても。

「……立てる、狛枝クン?」

そうして苗木が声を掛ければ、「……立てるから、触らないでくれるかな」と、狛枝は苛立ちと戸惑いの境界線に立ち尽くしたような顔をして、すぐさま苗木と距離を取る。相変わらずの距離感に苗木が苦笑してみれば、狛枝はそれから一言も口を開くことは無く、ぼんやりと虚空を見やって過ごした。

――飲み込まれてしまいそうなほど強烈で、切実なまでの彼の想いを、全て理解出来るとは思わない。それでも。いつかボクのボクらしさが伝わって、彼が少しでも優しい方法で、彼の願いを訴えることが出来るようになればいい。それはとてつもなく傲慢で、どうしようもなく身勝手な、ただのお節介に過ぎないのかもしれないけれど。

思いつつ、自分のものではない涙に濡れた目元に触れて、苗木は少しの決意を秘める。

――彼が抱え続ける「本当」と、彼が抱え続ける「嘘」が、どうか彼を押し潰してしまわないようにと願う。そうしてボクがボクなりの精一杯の「希望」の持ち方で、いつか彼の「希望」という「絶望」を打ち砕けたのなら――。
その時にはもう一度、彼にとっての「幸運」がどんなものなのかを聞けるといい。自虐も自傷も混じり気のない、彼にとっての「幸運」の意味を。

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