「ねえ、日向クン」
やや神妙な顔をして狛枝が日向を呼べば、日向は「何だよ?」と面倒そうに一言返す。どうせまた仕様もないことを思いついたのだろう。先に構えておかなければ精神衛生上宜しくないことは日向自身、これまでにも散々学んでいることだった。
「やだなぁ、そんな顔しなくてもいいじゃない。休日にまでそんな顔してると、せっかくの幸運が逃げてっちゃうよ?」
ボクが言うのもなんだけど、キミってあんまりツイてなさそうだからさ。そう言ってふわふわと微笑む狛枝に「誰のせいだと思ってるんだよ」と溜め息を落として、日向は渋々といった様子で狛枝のことを振り向いた。
「勝手に人のコテージに上がり込んでおいて、いったいいつまで居座る気だよ。他に行くとこ無いのか?」
「うーん、行こうと思えば行くところはあるんだけどさ。でも、ボクはキミに会いたくてここに来たんだよね。だから他のところに行く、っていうのはあんまり気が進まないかな」
悪びれもせずにそんなことを言ってから、狛枝は日向のベッドに背をもたれたままで「追い出すなんて嫌だよ?」とにっこり笑った。
「……まあ、別に出て行けとまでは言わないけどさ。で、さっきのは何だったんだ?何か言いかけてただろ」
「ん?……ああ、そうだったよね。別にそんなに大したことじゃないんだけどさ。さっき、スーパーマーケットでこんなものを見つけたから」
面白そうだったからちょっと持って来てみたんだよ、と。そう言って日向に差し出されたのは、何の変哲もないお菓子の箱だった。どこにでも売っていそうなそれを受け取って、日向は「……チョコレート?」と訝しげな顔をする。
「面白そうってどこがだよ。ただのチョコレートだろ?」
「え、面白そうでしょ?カカオ88%」
当然のことのように狛枝は言って、期待の眼差しで日向を見やる。
「……カカオ88%?ふーん、今時はそんなのがあるんだな……」
そんなことを呟きながら、日向は渡された箱をまじまじと見やる。表面には「カカオの香る美味しさ」とか「ポリフェノールを豊富に含んでいます」とか、まあ、よくありそうな説明がいろいろと書かれているようだ。
希望ヶ峰学園の南区画にはスーパーやデパートが立ち並んでいるため、こういった商品を目にすることもさして難しいものではなかったはずなのに、日向自身はあまりそういった店に立ち入った記憶が無かった。それがいったい何故なのかは思い出せないけれど、とにかく、一般的な菓子の類を目にするのは久しぶりだ。
「カカオ、ってことは……」
「たぶん、普通のブラックチョコレートよりもずっと苦いと思うよ?」
ポリフェノール入りだって。やっぱり面白そうだよね。そう言って無邪気に笑う狛枝は、「ふふ、楽しみだなあ」と呟く。
日向にはいったいこれのどこが「面白そう」なのか分からなかったけれど、ひとまず狛枝に期待を持たれているらしいことを受け入れて、半ば押し負けるようにその箱を開いた。
「……普通だな」
「ウン、普通だね?」
それがどうしたの、とでも言いたげな狛枝を横目に、日向は目の前の箱をもう一度入念に調べる。見た目はどこをどう見ても普通のチョコレートなのだが、どうにも狛枝が持ち込んで来たものとなると信用ならない。そんなことを思いつつ、再度箱をよく眺めてみても、特に怪しい場所は見つからない。
「せっかくだからさ、日向クンが先に食べてみてよ?」
「……お前が持って来たんだろ。お前が先に食えよ」
狛枝の言葉に呆れたように日向が言えば、狛枝は「ボクはいいよ。日向クンが食べてくれたら食べるから」とにこりと笑った。
「んなこと言われてもな……」
散々眺め回した後、どうやら手にしている箱が本当にただのチョコレートらしいことを確認して、日向は諦めたように持ち上げていたそれを手元に抱えた。――いったい何を企んでいるんだ、こいつは。思いつつ、日向が狛枝の方に視線をやると、狛枝は「うん?」と不思議そうな瞳で日向と視線を合わせる。
「どうかした?」
「……お前、何企んでるんだよ」
「やだなぁ、別に何も企んでないよ?ボクはただ、日向クンにこのチョコを食べてみてほしいなって」
そう思っただけだから、あんまり警戒しないでよ。そう言ってなおも微笑む狛枝は、「あ、でも」と付け加える。
「日向クン、もしかして苦いのは苦手?」
「いや、別にんなこたないけど……」
「そっか。なら良かった」
日向クンの苦手なものを押し付けるだなんて、そんな最低なことがボクに許されるはずないからさ。軽い調子でそう言ってから、狛枝は安心したように「じゃあ、ちょっと貸してくれる?」と日向の手元へ腕を伸ばす。
「え?あ、おい……」
そのまま日向の手からチョコレートの箱をひょい、と取り上げて、狛枝は中から個々に包装されているそれを一粒だけ取り出した。――うーん、本当に何の変哲もないチョコレートだよね。思ってから、狛枝は妙にゆったりとした仕草で包装を解いた。手に取ったそれをどうすべきか思案して、一瞬の間。狛枝はベッドの上から自分を見下ろす日向の口元に、自身の白い指先をそろそろと近づけていく。
「はい、日向クン。やっぱりキミが先に食べてよ?」
ね、いいでしょ。そう言ってやや迫るような格好になりながら、狛枝は「早くしないと溶けちゃうよ?」とちょっと笑って、指先にじわりと熱を帯びたそれを、見せ付けるように日向の目の前で留めておいた。
「……、……ったく」
分かったよ、食えばいいんだろ。数秒の葛藤の後、やがて根負けしたらしい日向は、狛枝の手から奪い取るようにひとかけらのチョコレートを掴み、一気に口の中へと放り込んだ。とろりと舌先で溶け落ちていくそれは、なるほど、確かにいつも口にしているようなものとは違って随分苦い。――苦い、のだけれど。
「ん……?」
口内で執拗にやや硬さのあるそれを舐め溶かしながら、日向は戸惑ったように無意識に口元に手をやった。そっと唇に手を触れると、――やや昂揚するような、感覚が、ある。
「どう?」
どこかうっとりしたようにも見える表情で、狛枝は日向の座るベッドに首をもたげ、上目遣いで日向を見上げた。その瞳がやたらと色めいて見えてしまったものだから、日向は気まずさに内心盛大に首を振って自分を諌める。駄目だ、今日だってその手には乗ってやらない。そう、まずは少し落ち着くべきなんだ、と。
「や、どう、って言われても……」
そうしてやや視線を逸らしたまま日向は呟いて、「別に、普通のチョコレートだぞ」と出来るだけ素っ気無く呟いた。それに狛枝は「ん……そう?」と少し目を細めて、「ねぇ日向クン、こっち向いてよ?」とほんのりと笑ってみせる。
「……何だよ?」
「ううん?でも日向クン、ボクのことを見てくれようとしてないからさ。……あぁ、本当だ。あんまり甘くはないんだね?」
そうして日向を呼び求めた狛枝は、先ほど日向に渡す際に溶けて指先に残ったチョコレートを、ひどくゆったりした動作で舐めとった。舌先が指先へと滑り込むように這っていく、その所作がやけになまめかしくて、見せ付けられる形になった日向はそのまま言葉を失くしてしまう。
「日向クンが食べてくれたことだし、ボクもひとつ試してみようかな」
言ってから、狛枝も日向に続いてチョコレートを一粒口へ放り込む。舌先で形をなぞるようにくるくると溶かしてみれば、なんだか妙に扇情的な気分に陥った。
――ああ、ウン。確かにこれはちょっとクるかな。冷静半分、戸惑い半分にそんなことを考えて、狛枝はゆるゆると瞬きをする。面白い情報を目にしたものだから、本当にちょっと試してみるだけのつもりだったのだけれど。割合洒落にならない感覚だ。これは。
芯から熱を帯びて、くらくらするような昂揚感。なんとなく落ち着かない気分になって、平静を取り戻そうと吐息すれば、無意識に口内に触れた舌からの刺激に負けそうになる。一度意識してしまうとどうにも敵わない。甘美な感覚は連鎖して、その先の未知を追い求めたくなってしまう。
「あはは、ちょっと、予想外、かな……?」
そもそも狛枝が唐突にこんなものを持ち込んで来たのは、先日、図書館に置かれていた何かの雑誌のバックナンバーで興味深い記事を見つけたからだった。「ブラックチョコレートを舌で溶かす行為は、普通にキスをするのに比べて脳が倍ほど昂ぶりを覚え、さらにはそれが長時間持続するようだ」と。そんな研究結果がなかなか大真面目に記されていたものだから、たまたまスーパーマーケットでそれらしいチョコレートを発見した狛枝は面白半分、お戯れのつもりで日向にこれを勧めてみることにしたのだけれど。
「んー……せっかくだし、もうひとつ食べてみる?日向クン?」
やや気が大きくなっているのか、面白がるように狛枝はそう言って、新たなチョコレートをひとつ取り出した。
「あー、いや、いい」
遠慮しとくよ。そう口にしかけた日向の言葉を制止するように、狛枝は軽く日向の唇に触れて瞬く。
「……いいから、ね?」
そう囁いてから、狛枝はゆるりと笑んで、手にしていたチョコレートを日向の口内へ押し込むように譲り渡した。
「ちょっ……」
止めろって、と抵抗する間もなく、日向は二粒目のチョコレートを含まされて狛枝に抗議めいた視線を送る。
これ以上余計な刺激を食らわないように、と。押し付けられたチョコレートを苦し紛れに噛み割れば、どろり、と冷たい液体が日向の口内を満たした。予想外の事態に驚いて、勢い良く飲み込んでしまってから、広がるアルコールの風味にひどく後悔を覚える。
「ちょっと待て、……これ、アルコール入ってない、か……?」
「え?」
そう呟いた日向に、覚えの無い狛枝が「ボクのには入ってなかったみたいだけど……?」と申告すれば、日向は頬を蒸気させたままで、「どういうことだよ、それ……」と息を吐く。
「だって、箱には何も……」
あれほど確認したのだ。先ほど調べた時だって、外箱には確かに何も変わったことは書かれていなかった。それならどうして。散らばっておぼつかなくなりそうな思考を必死に手繰り寄せながら、日向は考えてはみるものの、結局霧散してしまって答えは出ない。
そんな日向の傍らで、狛枝は開封した箱を今一度見やって、箱の底面の文字に始めて気付く。包装されたチョコレートを全て取り出すと、隠れていた部分に「ロシアンルーレット企画!」と銘打たれた一文が確認できた。
「ふーん……?今なら期間限定で白ワイン入りのチョコレートが入っています。確率は六分の一……だってさ、日向クン?」
そう言って、狛枝は「今日の幸運はキミだったみたいだね?」と、目を細めて艶やかに微笑んだ。
「注意書きとか、何も無しかよ……」
何かと風紀に厳しいウサミという存在がありながら、こういった説明不十分なものの存在が許されるなんて。日向はそんなことを思いつつ、だんだんとのぼせて行くような感覚に囚われる。ただでさえ危うい昂揚感が渦巻いている最中だ。これ以上はいくらなんでも。必死の抵抗を試みようとするけれど、こればかりは気力でどうにかなってくれるようなものでもない。
「ちょっと、待て……俺……」
――まずいだろ。いくらなんでもこれはまずい。今までこれだけ自制して来たっていうのに、こんな、今さらになって、ほんのちょっとのアルコールなんかで敗れてしまっては話にならない。
なけなしの理性でそんなことを唱え続けて、日向は衝動に身を委ねたくなってしまう心を必死に咎める。
――いや、でも誘ってきたのってこいつだし。じゃない。違うだろ、何言ってんだ、俺。
「……っ」
余計なことをひとつ考えるたびに、自分の言葉に煽られて、なおさら鼓動が早鐘を打つ。たぶんチョコレートの効果で妙に恋愛脳になってしまうらしいというアレだとか、単純にアルコールに押されてたがが外れかけているソレだとか、とにかく、いろいろなものがせめぎ合って精一杯だ。
「あ……えっと、あのさ。日向クン、もしかしてお酒弱い……?」
そこで少しばかり真剣な調子になって、狛枝は目の前の日向の様子に若干の焦りを覚える。元々狛枝はあの研究結果を話半分にしか受け取っていなかったし、狛枝としては、こうして日向を相手に彼の反応を楽しみたかっただけなのだけれど。戯れで済むうちに終わらせてしまうどころか、もはや場の雰囲気がどうにもならない領域に入りかけている気がしてならない。
「もしかしても何も……」
はあ、と諦め加減に吐息して、日向はゆるゆると首を振る。「洋酒入りのチョコレートで酔える人間だよ、俺は……」と情けなさそうに言って、狛枝から視線を逸らす。
「大丈夫……?その、だいぶ真っ赤になってるみたいだけど……」
そう言って、やや困ったように日向を覗き込んだ狛枝に、日向は「大丈夫。大丈夫だから……」と精一杯その瞳を拒絶する。――駄目だ。今真っ直ぐに見つめられると、余計な気を起こしかねない。
「日向クン……?」
本当に大丈夫なの、と。当初仕掛けていたはずの狛枝の方が半ば本気で心配するような表情になって、日向の位置するベッドに乗り上げる。予定外の事態に狛枝は冷静さと混乱を取り混ぜたようなふうをして、日向を前にしたままで一瞬固まった。
日向の蒸気した頬はほんのりと紅く、狛枝がまじまじと見つめてみれば、何かを堪えるように不自然に視線を逸らされる。――さすがにそれが何を指し示す類のものかが分からない狛枝ではない。冗談半分とは言え日向を煽っていたのは自分なのだし、実際予想外の事態に薄れかけていたとはいえ、それは先ほど自分にも生まれた衝動だ。
けれど、いつもはこんなふうにからかったところで適当に流されてしまうから。今日も同じように、自分の願いは叶わず適当にあしらわれて終わるのだろう、と。そう思ったのが間違いだったのだろうか。
「……あのな、狛枝。お前が本当に俺を心配するんなら、今すぐ出て行ってくれるか。……今すぐに、だぞ」
狛枝を視界に入れて、日向は理性を振り絞って最後の忠告をする。男にはあまり無いような白く細い指先だとか、透明に澄んだ瞳の色とか、そういう類のものが、今は全て凶器になる。やけに無防備な仕草が劣情を煽って、いい加減引き返せなくなりそうだ。振り払おうとすれば、つい先ほどの映像が蘇るばかり。拒絶も聞かずに襲い倒すのは人道に反するだろうから。だから、一瞬だけだ。むしろ一瞬猶予をやれるだけ、まだ自分を褒め称えたいとさえ日向は思う。
「……チョコレートが効いちゃったのかな?」
それともやっぱりロシアンルーレット。あれのお陰なのかな。少し困ったように狛枝は笑って、茶化し加減に日向を見やった。
「んー……ごめんね、日向クン。……やっぱり、ボクはキミからは逃げられないよ」
こんなことになるとは思っていなかったから、正直怖い気持ちはあるんだけど。内心だけでそう呟いて、狛枝は「とりあえず、いろいろごめんね……?」と申し訳なさそうに謝罪を述べる。
――いつもちょっかいを掛けては手を出されないことに落胆しつつ、そのことにどこか安心してもいたから。別に、交わることが怖いというわけではなくて、そうされることで、幸福に満たされてしまいそうな自分が怖いだけ。ただ、それだけのことなんだけど。
心の中で懺悔をしつつ、狛枝は手を伸ばして日向の頬へと触れてみる。
――それでも、やっぱりキミに求められることを拒絶するだなんて出来ないよ。所詮、独りよがりなボクだからさ。キミのことだけを想って身を引いてしまうだなんて、そんなに素敵なことは出来なかったのかもしれないね。