あの後休憩所に向かうと、越前先輩の言っていた通りの場所に僕のノートはあった。あの場所はコートから一番近いこともあって、一時的に所持品を置いておくための簡易ロッカーが常設されているのだ。正直風に晒されて砂だらけになっていることくらいは覚悟していたのだけれど、随分早くに見つけてくれていたのか、実際はほとんど傷みも無く綺麗なままだった。

――たとえ誰のものか分からずにそうしていたのだとしても、結果的に自分のために越前先輩が手を掛けてくれたのだと思うとやっぱり嬉しい。少し沈みかけていた気持ちも、こんなことで浮上してしまうのだから単純だ。――と同時に、抜け出せなくなってきているな、とも、思う。

さて、今日の練習も大変だ。昨日に続いて練習試合が組まれているから、選手たちにとってはそれほど大変ではないけれど、帯同者は球拾いに終始するから体力を消費する。

「永四郎はたーと試合するぬ?」
「私の今日の相手は不二クンですね。お互い気を抜かずに行きましょう」
「やしが、わんぬ相手や凛やっし…… 」

あんまりやる気出ねーんさぁ。試合準備をしている僕の傍らで、そうこぼしているのは甲斐先輩だ。隣に居る木手先輩が標準語で返しているから何となく甲斐先輩が話していることも分かるけれど、やっぱり沖縄の言葉は難しい。

橘先輩と千歳先輩が話している時にもいつも思うけれど、訛りがきつくなると本当に会話が紐解けない。その状態で話を振られてパニックになったことも、この合宿に来てから何度かあった。

「いいから。真面目にやらんとゴーヤー食わすよ」
「うえぇ……ゴーヤーや勘弁してほしいさぁ……」

そうがっくりと肩を落とした甲斐先輩に、「ほら、そろそろ移動しますよ」と一言。二人はそのままシングルスのコートに向かって行く。

「……真田は今日は青学のボウヤと試合だって?」

(え……)

直後、越前先輩の話題に思わず耳を傾けてみれば、もう傍らで談笑しているのは立海の真田先輩と幸村先輩。そうだった、幸村先輩は越前先輩のことを「ボウヤ」と呼ぶのか。

もちろん随分以前からのことなのだろうから、僕がその理由を知ることはないけれど、越前先輩自身はおそらくその呼び名を嫌がっているのだと思う。前に「そろそろ何とかならないっすか、その呼び方」と、直接抗議しているのを見掛けたことがあったから。

「あいつと試合をするのは久しぶりだが、負けるわけにはいかんな。お前は遠山と試合か?」
「うん。あの子、最近全然俺のこと怖がってくれなくなっちゃって……。二年前の全国大会の頃はあんなに怯えられてたって言うのにね」

でも、それはそれでちょっと嬉しい、かな。重ねて語られる遠山先輩の話題に、僕は妙な驚きを覚えてしまう。だって、あのいつも強気で前向きな遠山先輩が「怯える」相手だなんて、この世に存在するものなのだろうか。――そう思ってから、今話しているその人が幸村先輩なのだという事実に思い至る。「神の子」と呼ばれるあの人なら、きっと不可能ではないのだろう。

「どちらにせよ、負けるなよ、幸村」
「いやだな、俺は負けないよ?真田こそ、負けたら鉄拳制裁ね」

俺も一回やってみたかったんだ、あれ。にこにこと笑いながら言った幸村先輩に、真田先輩は呆れたような表情で「お前な……」と息を吐いている。本当に、テニスをしていない時の幸村先輩のトーンには慣れない。あまりに穏やかなものだから、逆に戸惑ってしまうというか。

「練習試合15分前!球拾い組はAコート脇に集合!」

そこへ、帯同者へ向けた集合のアナウンスが鳴り響く。――ああ、そろそろ行かなくっちゃ。



***



練習試合も全て終わり夕刻。試合の結果はと言うと、真田先輩と幸村先輩はそれぞれ勝った。負けた越前先輩と遠山先輩はそれぞれ悔しそうではあったけれど、試合の内容自体はどちらも接戦だったみたいだ。

球拾いをしながらいろいろな選手の試合を見ていたけれど、やっぱり越前先輩のサーブはフォームがとても綺麗だと思う。僕自身があまり長身なほうではないから、見ていてとても参考になる。

――さて、そういえば僕は昨日の夜、僕にとってはとても耳寄りな情報を聞いたんだった。実は越前先輩は昨日に限らず、試合後にすぐ宿舎に戻ることはほとんど無いのだそうだ。夕食時には間に合うように帰って来るけれど、それまではどこふらふらしてるか分かんねぇな、とは、桃白先輩の証言だから確かだろう。

「探したら、いるかなぁ……」

あ、いや、断っておくけれど、別に用も無く探し回ろうと言うのではなくて。数日前の練習の時に、僕はコーチに「サーブを重点的に鍛えたほうが良いでしょう」と言われていたから、越前先輩にアドバイスを貰えたらなと思ったんだ。

――とは言っても、他意が無い、なんて言ったら嘘になるけれど。

逸る気持ちを上辺だけで覆い隠して、ひとまず昨日会った休憩所の傍へと足を運ぶ。やっぱりと言うべきなのか、さすがに二日続けて同じ場所には居ないようだった。

昨日は気が付かなかったけれど、この場所からは思ったよりもコート全体がよく見渡せる。それも向こうからはこちらを見つけられないのにもかかわらず、だ。そういうところは何だか越前先輩らしいなあ、と。何でもかんでも関連付けてしまうあたり、熱に浮かされてしまって地に足が着いていない。ああ、もう。

「駄目だなぁ……」

ふと気を緩めると、昨日のやり取りが心に浮かぶ。嬉しさやもどかしさに胸が締め付けられるように苦しくなって、いろいろな感情がない交ぜになってしまう、ひどく複雑なあの感覚。

まず一番に知りたいのは、遠山先輩との関係について。「ライバルなんですか」と聞けば「そうだ」と答えるあの二人は、「友達か」と聞けば「そうではない」と口を揃えるのだと言う。けれど、仲が悪いふうには見えないし。

――何よりも、昨日触れることを許した越前先輩に、どうしても引っ掛かりを覚えてしまって。そうやって影から見ているだけの自分が、あまりにも小さく思えて。

「けど、聞けないよな、そんなこと……」

まだ知り合ったばかりの自分には、比較的無害な「彼女さんはいらっしゃるんですか」の一言すら程遠いのに、「特別な人はいますか」だなんて、いったい誰がどうやったら聞けようか。

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