越前先輩の姿は、昨日とは少し離れた自主練習用のコートの傍にあった。練習をしているというわけではないようだけれど、タイミングの悪いことに昨日と同じ同伴者が一人。この人には会いたかったような、会いたくなかった、ような。

今日はどうやら二人で試合をしているのではなくて、遠山先輩が壁打ちをしている様子を越前先輩が眺めている、というスタイルのようだ。付き合わされているにしては真剣に観察しているふうなので、特別迷惑がっているというわけではないのだろう。

「……あの、先輩、こんにちは」

下手にこそこそして昨日のようになってしまうのはごめんだったので、今日は最初から素直に近付いて行くことにした。そうして越前先輩に呼び掛けれてみれば、「ん……?」と気だるげな視線を返される。

「今日もご一緒だったんですね。仲、良さそうでいいなって思います」
「別に仲良くないし。あいつが無理矢理纏わりついて来てるだけ。……で、何か用?」
「あ……えっと、今日、試合拝見しました。それで、あの……僕に、サーブを教えてもらえないかなって……」
「……サーブ?」

僕の申し出に驚いたのか、越前先輩は僕の言葉を繰り返してぱちくりと瞬きを二度、三度。「試合、負けたんだけど」と続けられる自嘲気味のその響きに、少しの余所余所しさを感じて息が詰まる。

「僕、コーチにサーブを集中して特訓するように言われてて。……その、すごく憧れてるんです、先輩に。フォームとか、すごい綺麗だし……」

あまり余計なことを口にしないようにと言葉を選べば、語尾が頼りなく縮んでいくのが自分自身でもよく分かる。ああ、なんて情けない。自信がないタイプとか、煮え切らないタイプとか、先輩は好きじゃないだろうって、ちゃんと分かってるんだけどなぁ。

「駄目、ですかね。やっぱり」
「……悪いけど俺、教えるのとか向いてないから」

越前先輩なりに気を遣ってくれたのだろうか、決して冷たく断られているわけではないのだけれど、それでもばっさりと切られてしまって大ダメージを受ける。

先輩があまり他人と関わろうとしないことなんて百も承知のはずなのに。悪意があるわけではないのだと分かっていても、好意を持っている人に拒否されるというのはなかなかに堪える。

「……聞きたいことがあるならあいつに聞けば?」
「え?」
「退屈は、しないんじゃない?」

そうして遠山先輩を見やった越前先輩は、壁打ちに励む姿を指差してふっと笑む。

(あれ、また……)

昨日の昼間、越前先輩と出会った時からずっと感じ続けている、ほんの少しの違和感が過ぎる。付き合いの長さが違いすぎるから、僕への対応と遠山先輩への対応が違うことなんてそもそも当たり前なのだけれど。――それでも、何というのか。

今までにだって、越前先輩が他の先輩と割に親しげに言葉を交わしているのは何度も見てきた。当時の僕はまだこの感情を自覚していない頃だったから、そんな姿を「ああ、羨ましいな」と思う程度ではあったけれど、それでもそこに最低限以上の特別な感じを受けることは無かったのだ。

たとえば、越前先輩は今はプロとして活躍している手塚国光さんをとても尊敬しているようなのだけれど、それは敬愛であって友情とか、対等とか、そういう類のものとは違う。

――簡単に言えば、そんな感じ、で。

「ん、なんやコシマエ。呼ばはった?」
「うおぉぇ!?」

突然の声に思考を中断させられて、驚きのあまり飛び退けば、「なんや、自分エラいオーバーやんな?四天宝寺に来るんやったら歓迎するで!」とにこにこ笑う遠山先輩の姿。傍では平然とした様子の越前先輩が壁に寄り掛かったままで、「……はい、タオル」とスポーツタオルを投げ渡している。

「おーきに。せやけどやっぱりこのコートはええなあ。いっつも空いとるし、結構キレイやし」

四天宝寺もこんなんやったらええのになぁ。はぁ、と溜め息を吐いてから、遠山先輩は「でもま、ええか!」とけろりと笑う。

――それにしても、つくづくよく笑う人だ、とふと思う。一昨日姿を見かけたときも、昨日試合をしているときも。今日越前先輩とこうして話しているときだって、遠山先輩は大体いつも笑っているような気がする。愛嬌がある人っていうのは、こういう人のことを言うんだろう。そう思えてしまうほど、多少の無茶も見逃してしまえそうな不思議な雰囲気を持っている。遠山先輩は。

「で、さっきのは何やったん?ワイのこと話してたんとちゃうんか?」
「……別に。この人がサーブ教えてって言うから、俺じゃなくてアンタに聞けって言っといた」
「はー、なるほどなぁ。……って何でワイやねん!」
「そういうことだからよろしく、部長さん」

遠山、練習終わったんでしょ。それじゃ、俺は先に帰ってるから。そう言って、越前先輩は手にしたPONTAを口にしてから、空き缶を後ろ向きのままでゴミ箱へと投げ入れる。

残された僕はどうしようもなく、ついぽかんとしてしまったのだけれど、傍らの遠山先輩はさして気にも留めていないようだった。

「行ってしもた。……ま、コシマエのやつ、人に教えんのとか苦手やからなぁ」

堪忍したってや。少しだけ苦笑気味にそう言った遠山先輩は、特に疲れている様子も無くのんびりとボトルの飲み物を口にしている。あれだけ動いたあとなのに、もう平然としているんだから、やっぱり人並みとは違うんだよなぁ。

「あの、遠山先輩はここ、よく来てるんですか?」
「んー?せやなぁ、コシマエが来とったら来るで?」
「え、っと……?」
「あー、せやけど今日はワイが引っ張ってきててん。立海の大将さんに負けたんが悔しゅうてな。すぐ帰る気にはなれへんかったんや」

言った遠山先輩は、「神の子言うても、次は勝ったるで」と闘志を燃やしている。そういえば高校生は三年生が早くに引退してしまうから、今時期はもう二年生が部長を任されているのだったっけ。幸村先輩の天下になったなら、きっと怖ろしく強いテニス部が出来上がるのだろう。

「先輩は四天宝寺の部長さんなんですよね?」
「ん?……ああ、せや。っても、めっちゃ助けられてんねんけどな」

ワイだけやったら絶対ここまで来れんかったわ。そう屈託の無い笑みを浮かべて言い切るその人懐っこさがあったからこそ、きっとみんながこの人に付いてきたのだろうな、と。そう思わせるのにも十分な、自然と他人を引き付ける独特の雰囲気を感じさせる。

確かに驚かされることも多くて、どこか破天荒な印象もあるけれど、どことなく中立の立場に立っていそうなこういう理性的な一面は、素直に格好良いな、と思う。

――ああ、今なら、聞けるだろうか。昔のこと、ほんの少しだけでも。

「あの、先輩」
「ん、どないしたん?」
「えっと……遠山先輩は、越前先輩とはいつからお知り合いなんですか?」

ついに思い切ってそう聞けば、遠山先輩は「コシマエ?」ときょとんとした表情を見せる。

――そういえば、今更ながらこの呼び方はどういった経緯によるものなのだろう。いや、「越前」の読み違いであることくらいはさすがに僕にも分かるのだけれど、なんとなくツッコミにくいというか、それでいて意外と自然に受け入れてしまっている自分もいる、というか。

「んーと……最初に知り合ったんは一年の全国大会ん時や。なんや東にもごっつ強いルーキーがおるっちゅーからめっちゃワクワクしててんけど、ワイ、静岡で迷ってもうてなぁ。ホンマにもう間に合わん思うたわ」

着いたら白石にも怒られてまうし、と遠山先輩はちょっと懐かしげに嘆く。白石先輩、って。名前はよく聞いたことがあるのだけれど、あれ、名前と顔が一致しない、な。

「白石さん……って、四天宝寺のバイブル、って呼ばれてた人、ですか?」
「せや。白石はワイが一年ん時の部長やったん。今もやけど、あん時からめっちゃ強かったんやで?」
「えっと……」

記憶からそれらしい人物を思い起こそうとしてみるけれど、なかなか一致する人物は出て来てはくれなかった。自慢ではないけれど、一度話した人の顔と名前はそうそう忘れないほうだから、おそらくまだ一度も会話をしたことが無い人なのだろうと思う。

けれど、たぶんそれ程に強い人でも、遠山先輩より強い、ってことは無いんだろうな。そんなことをぼんやりと思ってから、「すみません、お話したこと無いかもしれないです……」と言えば、遠山先輩はちょっと驚きながら「ホンマ?白石んこと知らへんなんて珍しいなぁ」と軽快な調子で返してくれる。

「あんな、白石はめっちゃすごいんやで!強いし、優しいしな?せやからワイは白石んこと大好きやねん」

ワイだけやない。白石と一緒にテニスやったらみーんな白石んこと好きになんねん。自分もきっとおんなじやで。そう言って白石先輩のことを話す遠山先輩があまりにも嬉しそうなので、たぶん遠山先輩は本当に白石先輩のことを尊敬しているんだろうなぁ、と、後輩の身分ながらも微笑ましく思う。

きっと、誰かへの愛情をことさらに素直に出せるのがこの遠山先輩という人なんだろう。誰かをすごいと思ったら、徹底的に羨望の眼差しを送ってみせる。僕としては、その真っ直ぐさを持った遠山先輩のほうを尊敬してしまいそうだ。

「……せや。話逸れてもうたけど、コシマエとはそっからずっと決着付かんねん。ワイが勝ったら次はコシマエが勝つの繰り返しばっかりや」
「……なんか、タイブレークみたいですね?」

一ポイント取っては取り返し、いつまでも決着の付かないデッドヒート。だけれどただ苦しいだけのものではない、あの感じに少し似ているなあ、と思う。

「そう言われたらそうやんな。自分、めっちゃ上手いこと言うやん」
「……あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
「ん?」
「えっと……なんでコシマエ、なんですか?越前先輩のこと」

見た感じ、先輩方には当然のこととして伝わっているようなのだけれど、よく考えるとやっぱり不思議だ。何よりそれを普通に受け入れている越前先輩にも驚いてしまう。幸村先輩みたいなケースは、たぶん自分が見下ろされるような呼び方をされているのが嫌なのだろうとは思うのだけれど、それでも越前先輩の場合、特殊な呼び方がまかり通ること自体が驚きに値する。

「そんなん、決まっとるやん」

そうして分析めいたことを考えていると、遠山先輩がけろりとしたふうに言い放つ。

「ただ越前、言うてもオモロくないやろ?やって、それってめっちゃ普通やん。……普通んなってまうんは嫌やったから、無理矢理特別にしたったんや」

「……とか何とか言うて、最初はホンマに間違えてんけどな?」。そう言った遠山先輩は昨日越前先輩を諭した時みたいにどこか大人びたふうをして、「越前には内緒やで?」とほんの小さく囁いた。

(あ、れ。もしかして、これって……)

友達に対して、とは、少し違う感覚の。いつも溌剌としたその笑顔が、今この時だけはとても甘さを帯びていたような気がして。――自分が抱いている感情が感情だけに、少しの変化に過敏になっているだけだったなら、それはそれでいいのだけれど。

「遠山先輩、あの――」

――ドンドンドドドン四天宝寺!

「っ!?」

途端、僕の決意の問い掛けは、超個性的なコール一つで無残にも崩れ去ってしまう。

「ん、電話やんな?……なんや、財前からや。すまんけど、出ても構わへん?」
「あ、え、……はい、どうぞ!」

内心泣きたい気持ちに襲われて、電話の主を失礼ながらもちょっぴり恨む。何も今かけて来なくたっていいじゃないですか、財前先輩。はぁ、もしかして四天宝寺の人とは根本的にタイミングが合わないんだろうか。そんな責任転嫁じみたことを考えつつ、宙に浮いた問いをもやもやとしたまま引き戻して、僕は遠山先輩に注意を向ける。

「ワイやけど。どないしたん?」
「今日の夜、みんなで部屋に集まるとかいう約束あったやろ。謙也さんがホンマにうるさいから、なるべく早くしてほしいんやけど」
「約束……あー!せや!すっかり忘れとったわ!」

静かな場所ゆえか音漏れがして、受話器越しに「忘れとったみたいっすわ」と諦め加減の財前先輩の声が聞こえる。それに続いて、「はは、やっぱり金ちゃんは変わらんなぁ」と聞き慣れない人の声。「千歳もまだ来とらんから急がんでもええで」とのんきなふうのその響きは、なんだかとても人が良さそうな印象を受ける。

「……じゃ、そういうことやから。ま、怒ってんのは謙也さんだけやからあの人は放っといても構わんけど、早う帰りたいからなるべくやったら早めにしてや」

切るで。その一言を残して、どうやら電話は切られたようだった。遠山先輩はそれほど焦っていない様子で荷物をまとめて、どこか機嫌良さそうに、けれど少し申し訳なさそうに僕を見やる。

「あんなぁ、今日白石が部長やっとった時のレギュラーで集まろう言うてたん。めっちゃ悪いんやけど、ワイ戻っても構わへんやろか……?」
「あ、そんなの全然!もともと僕が勝手に押し掛けちゃっただけですし、気にしないでください!」

実際、僕が最初に練習をお願いしたのは越前先輩のほうだったのだし、遠山先輩は実質巻き込まれただけに過ぎないのだから、引き止めるような失礼は出来ない。

正直、さっきの問いを今からやり直す勇気は起きないし、あれは勢いに押されなければ聞こうとすることさえ出来なかっただろう。

――先輩、もしかして越前先輩のこと、なんて。

「すまんなぁ。そんじゃあお先に失礼するで。おおきに!」
「お疲れ様です!」

そうして挨拶を返した頃には遠山先輩の姿はもう随分と遠くへ消えていた。ああ、いっそきちんと知ることさえ出来たなら、今ならまだ引き返せるのに。思いはすれど、手掛かりはすでに遠のいてしまった。

けれど、たとえば遠山先輩のあれが「そういう意味」なのだとしたら、越前先輩はそもそも遠山先輩をどう思っているのだろう。ああもう、誰かを好きになるのって体力要るよなぁ。そっと何に対してか分からない溜め息を吐いて、僕も宿舎へと重い歩みを進めることにした。

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